この狭い世界で

2016/01/20 18:46



人の気配に、桂は顔を上げた。足音も立てずに忍んでくる男を一人知ってはいるが、こんなところにいるはずがない。
人目を避けた隠れ家とはいえ見張りは置いているのに、侵入者だろうか。桂は傍に置いていた刀に手を伸ばした。
しかし障子戸に写った影に、目を瞠る。
見慣れた影だ。だがなぜ、と瞠目するほどには有り得ない形である。

「よおヅラ、邪魔するぜ」
「高杉……!」



若干乱暴に障子戸を開けたのは、袂を分かったはずの男。


「……なんだ、次に逢ったらぶった斬るんじゃなかったのかい」


煙管を口から外しその男ーー高杉は口角を上げる。そうだ、桂がその言葉を高杉に投げつけたのはつい昨日のこと。だが刀を握っていても、桂がそれを鞘から抜くことはなかった。


「斬ると言った俺の前にわざわざ姿を現すのなら、よほど大事な用があるのだろうな、貴様」


斬られると分かっていながら訪れた理由が分からない。ほとぼりが覚めた頃なら分からないでもないが、昨日の今日で一体なにを考えているのか。


「あァ、まあ大事と言えば大事かねえ」


高杉の手が伸びてくる。桂はとっさに刀を握り直したが、意にも介さず髪を引き掴まれた。


「っ……」
「髪、随分短くなったな」


高杉の指先が、髪をすくって梳くも、いつもとは違ってすぐにすり抜けていってしまう。見た目にも随分と寂しくなってしまっているが、桂自身はさほど気に留めてもいないように見えた。


「伸ばすだろ? ヅラ」


まるでそうするのが当然というように、高杉の口唇が髪に触れる。そこからさえ熱が伝わってきそうな感覚に、桂は少し肩を竦めて訊ねた。


「ヅラじゃない、桂だ。何度言えば分かる。しかし……貴様は長い方が好きなのか?」
「……ガキの頃から長ェのしか見てねーからな。落ち着かねェ」
「ふ、それは愉快なことだな。では伸ばさんでおこう」


桂は目を細めて笑う。落ち着いていない高杉など見たこともない、と。あえて言うなら戦っている時くらいだ。
体を重ねる時でさえ、どこか冷めているようにも思えるのに。欲望のままに体を重ねても、熱をすべて奪うことはできない。
高杉の前には、彼自身が言ったようにひとつの道しか見えていないのだ。


「減らず口叩きやがる」


そう言いつつも、高杉は愉快そうに桂の顎を捉え口唇をふさぐ。桂の反抗が嬉しいとでもいうようにだ。抗ってくる相手は少ない。幼い頃から変わらない距離感が、高杉には心地良いのだろう。


「貴様はすぐそうやって……俺の話を聞かん」
「……なんだ? 今日はやけにつっかかるじゃねェか。話せよヅラ、聞いてやるぜ?」


桂が寄せた眉の間に口唇を落とし、高杉は笑う。しかし桂も、こんな時にこんな状態で話したいことが見つかるわけもなかった。言いたいことはあの時船で言ったつもりだし、これからも変わらない。
高杉自身を否定するつもりはないが、やり方が気に食わん、と。
たとえ高杉を斬ることになろうとも、そのやり方を認めるわけにはいかない。それを伝えて、決別した――はずだった。
それがどうして、またこんなことになっているのか。


「あァそうか……お前さん、俺のことが嫌いなんだっけなァ。そんな相手に、話すこともねェってかい」


桂が押し黙っていると、高杉が声を低くしてそう呟く。本気で訊いてくれるつもりがあったのかと桂は気づくが、今さら何を言ってもこの男の心の奥底には響かないと知っていた。


「…………ああ、嫌いだ」


桂の指先が、高杉の頬を撫でる。戦うことでしかもうこの男を止められないのかと思うと、悔しくて、苦しくてしょうがない。


「だが、愛してもいる。だからこそ止めたいのに、貴様は話を聞かん。肌を重ねながらも共にいることさえしない」


船の上で、嘆いた。国どころか友一人変えることもままならないと。変わってほしくないと心から願う、もう一人の盟友に。どれだけ茶化されようが、あれは桂の本心だった。


「貴様ひとり変えられん俺が、国を変えるなどと……とんだ大法螺を吹いたものだな」
「俺は変わっちゃいねぇさ。てめーこそ人の話を少しも聞いちゃいねえな、ヅラ。俺はあの頃からたったひとつのものしか見てねえよ」
「……そうだな、貴様の狭い世界に、俺は存在していない」


高杉の想いは、師に対する、恋情にも近い憧憬だ。それは随分前から知っている。
桂自身、師を尊敬していた。今でも彼の人以上の師はいないと思っている。それを自分たちから奪わせたのは、何よりも弱い自分たち自身だ。
だから高杉の気持ちは分からないでもない。
たったひとつと言い切ってしまえる強さと、弱さと、幼さ。高杉晋助という男を形づくるもの。
そこに、桂小太郎は――存在していただろうか。


「高杉、ひとつだけ答えろ。俺を抱くのは――哀れみか?」


桂の問いかけに、高杉の目が細められる。
気まぐれに肌を合わせたのはいつ頃のことであったか。桜が散る季節だっただろうか。思い出せるのは、ちりちりと焼けつくような胸の痛みだ。
恋をしているつもりはなかった。する気もなかった。
それでも愛していると言えてしまうのは、頬に触れたいと伸びてしまう指先のせいだろうか。


「哀れみねェ……色気のねぇこと言いやがる。俺は俺なりに、てめェを好いてやってるつもりだがなァ、ヅラ」


その指先を払いのけておいて何を言うのか。
桂が眉を寄せたのを確認してから、高杉は面白そうに指を絡めた。そのまま強く引き、口唇を奪う。触れる、ではなく、奪う、だ。乱暴にふさがれた口唇から、呼吸さえももぎ取られていく。
桂はきつく目を閉じ、いったいこの男のどこに惚れてしまったのかと自身を哀れんだ。





う、と声を詰まらせた。煙管が面白そうに肌を撫でていくのと、高杉の指先が中をえぐるのとで、違う種類の快感を与えられる。強弱も違えば感度も違う。いつの間にか知り尽くされてしまったその場所は、いとも簡単に高杉を受け入れていくのだ。


「は……ぁっ……あ」


紫煙のにおいが鼻をつく。それに混じって高杉のにおいと汗を感じた。密着し、素肌を合わせているのだと実感するこんな瞬間が、桂には幸福でとても後ろめたい。
止めるために、救うために、斬ると決めた相手に抱かれて悦楽を感じている事実が、ひどく愚かしくて情けない。


「高杉……っ」


両腕で抱きよせるのは忍びなくて、剣を抜く右腕で高杉をいだく。斬りたいわけではないのだと言い訳をして、何度も重ねてきた肌を合わせ体温を感じ取る。耳元の愉快そうな笑い声さえ、桂を高ぶらせた。


「ククッ、今日はやけに積極的じゃねえか、ヅラ。そんなに寂しかったのかい」
「馬鹿を言うな。もとより傍にもおらん貴様相手に寂しがってなどいたら、身がもたんわ」


早く済ませろと、心にもないことを言って返し、左腕も背中に回す。それに応えるようにも高杉の腕が桂を抱き起し、膝の上に座らせた。


「てめェが動け」


支えててやる、と高杉はようやく煙管を離し、桂の体を抱きしめる。次に逢ったら斬るとまで言った相手の隠れ家に抱きに来てまで、不遜な態度は変わらないなと、桂は深く息を吐いて腰を上げた。






ヅラ、てめェは少しも分かっちゃいねえ。俺はてめェが思っているより惚れてんだ。
俺の上で腰を振って、色っぽい吐息で俺を誘って煽るてめェに、俺ァちゃんと惚れてんだぜ。
あぁでも今日はやっぱり髪の長さが物足りねえな。
いつもなら、こうして俺に口づける寸前はてめェの長い髪が頬の横に垂れて覆ってくる。
狭い視界にとろけた顔が映るんだ。てめェの言う狭い世界に俺とてめェのたったふたつきり。最高じゃねーか。


だが、俺とてめェがともにいたって、何も変わりゃしねー。昔も、今もだ。
何も守れず、何も壊せず、ただひとつきり描いた魂を追ってくだけだ。
せいぜいこうして抱き合って名を呼ぶくらいしかねぇだろうよ。


「なぁヅラ。次に逢う時までに、髪ィ、伸ばしておけよ」


このたったひとつの狭い世界で――。