華家



守るもの


 カシャ……ンと落ちた眼鏡が割れる。千景の体が、傍の壁にぶつかる。けほ、と小さく咳いた彼は、ひどく疲弊しているように見えた。

「せ、先輩……っ」

 それを支えようと伸ばした至の手は、珍しく振り払われた。

「なんで言うことを聞かなかった、茅ヶ崎!」
「……っ」

 言葉に詰まって、息を飲む。
 千景が怒るのも無理はないと思うのだ。ところどころすりむけたお互いの衣服。土埃や焼け焦げた物から移った煤で汚れ、どうかすると血がにじんでいる。
 危険を承知でついてきたのは、至の責任だ。制止した千景の言うことも聞かずに、千景のあとを追ってきた。
 まだ遠くの方で、建物が焼けて崩れ落ちる音が聞こえる。ここの壁にも、銃弾の痕が見える。話を聞いていても、どこか現実味がなかった、これが千景の生きている世界なのだと思い知らされた気分だ。

「いいか、茅ヶ崎……俺はお前が思っているほど有能でも、万能でもないんだよ! 自分の身が守れないなら、絶対についてくるな! こんな状況で二人も守れるか!」

 武器もろくにない状態で襲われた。いや、至の思う武器と、千景が使うであろう武器は違うのだろうが、そんな状況では逃げるのが精一杯だ。明らかな殺意をかわし、余力を残しながら走り、無関係の者に見とがめられないような場所までくる。できそうなことはそれしかない。

「二人って、あの」
「茅ヶ崎と、……俺だよ。お前ひとり残すようなことになったら、お前は絶対に逃げ切れない。守り損だ。そうなると必然的に、俺自身も守らなきゃいけないだろう?」

 じんわりと、胸が熱くなってくる。守られているという実感はあったけれど、それ以上に、自分自身を守ると言ってくれたことが、何よりも嬉しかった。こんな危険な世界で生きていれば、生に執着しなくなるかもしれない。いついなくなってしまってもおかしくない。それが怖くて、至は千景についてきてしまった。
 千景はもしかしたら、それに気づいてくれているのかもしれない。
 愛していると言われるよりも、生きて帰ると言われる方が、どれだけ救われることか。

「すみません……俺、今回は本当に足手まといでしたね」
「まったくだ。前回みたいにうまくことが運ぶと思ったら大間違いだぞ。調子に乗るな」

 ぐぅの音も出ない。前回は、たまたま運が良かっただけだ。せいぜい、千景の傍を離れたくないという至の思いが叶えられただけである。
 はあーと千景が深いため息をつく。居たたまれなくて俯こうとしたら、千景の左腕が伸びてくる。それはゆるりと手首を掴み、抱き寄せられて、背中に千景の右腕を感じた。

「……一度だけでいいよ、茅ヶ崎。こんな思いをするのは、もう御免だ」

 千景のにおいがする。土埃と煤と血のにおいに混じって、もう慣れてしまった千景のにおいを全身で感じた。痛いほどに強く抱きしめられて、自分の浅慮が千景にどんな恐怖を抱えさせていたのか知った。

「……すみません。俺あなたを愛してるんで、また無茶するかもしれませんよ」

 至も千景を抱き返しながら、ぼそりと呟いた。心音が重なっていく。きっと本意は伝わるはずだ。

(俺の存在があなたを生かす枷になるなら、どんなことをしてでも……あなたを〝家〟に帰します)

 届いた証拠に、千景の額が至の肩に押しつけられた。

「……馬鹿な男だな」
「あなたも、相当」

 思わず笑ってしまう。だけどそんな幸福な気持ちは、長く続かなかった。
 千景の膝が、ガクリと崩れる。

「先輩っ!?」

 傾いでいく千景の体を支えきれない。圧倒的に力が足りず、至は千景の体を倒れ込ませてしまった。

「先輩っ、ちょっと、どう……」

 支えることもできないで、何が〝愛してる〟だか、と自嘲した指先が、脚ににじむ大量の血を認識した。血の気が引いていく。まさかあのとき撃たれていたのだろうか。

「先輩、なんっ……こんな脚で」
「茅ヶ崎……悪い、平気だ。ここまで来れたら、安心して、気が抜けただけだから」
「そんなわけないでしょう! えっと、とにかく止血……なんか、水とか、タオルとかっ……ねーのかよ!」

 だんだんと口調が荒くなっていく。密ならこんなときでさえ冷静に対処するのだろうが、至は慣れていない。弾傷なんて見たこともない。普通に止血していいのか、そもそも止血方法とは、というところからして、分からない。焦りが、恐怖となって至を襲った。

「いいから、茅ヶ崎。処置くらい自分でできる」
「はァ!? じゃあ俺なにしてたらいいんですか!」
「そこにいろ」

 千景はゆっくりと体を起こし、壁にもたれる。千景から流れ出た血液が床を汚していて、改めてぞっとした。

「そこにいろ。下手に動いたらまた見つかる。頼むから余計なことはするな」
「余計なことって、もうちょっと言い方ってものが!」
「処置、見せるから。次からはお前がして」

 確かに足手まといでしかなかったが、と抗議しかけた至を遮って、千景がまっすぐに見つめてくる。普段と違って眼鏡のない彼の顔は、ベッドの中とも違って新鮮で、その言葉の意味も手伝って、至の心臓を跳ね上がらせた。

「次……」

 次からはお前がして――ということは、もしまたこんなことがあれば、ついてきてもいいということだろうか。きっと本意ではないのだろうが、千景の優しさが胸に沁みる。

「……はい」
「あと、充電が切れそう」
「充電?」

 携帯端末の充電だろうか。どこかに連絡を入れるなら、自分のを、と取り出そうとして、抱き寄せられた。

「キスしてくれ。茅ヶ崎が足りない」

 唇のすぐ傍でそう囁かれ、ボッと頬が染まる。この距離まで抱き寄せておいて「キスしてくれ」もなにもないだろうにと思いつつ、あと数センチを、至自身の思いで埋めた。



2018/05/27
「一度だけでいいよ」という台詞で描くというリクエストに、めいかさんが素敵なもの投下 PIXIV(※ログ9枚目) してくれたおかげで、滾ってしょうがなかった私の産物。
  
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