華家



両手いっぱいの花を


「え? 左京さん今日帰ってこねえのか?」
 十座は、自室で着替えをしながらルームメイトを振り向いた。
「かも、だよ。何か仕事の方ゴタゴタしてんじゃねーの。昨日も帰ってこなかったみてーだしよ」
「そうなのか……」
 しゅん、と肩を落とす。せっかく、久しぶりにゆっくりできそうだったのにと。
 ここ最近時間が合わず、稽古と食事の時くらいしか顔を見られなかった。昨日はせっかく、左京の方から誘ってくれたのに、大事な予定が入っていて断ってしまった。だから、今日にでも埋め合わせをしようと思っていたのに。
「つかおめー今日はいいのかよ、[[rb:向こう > ・・・]]」
 ルームメイトである摂津万里が、訳知り顔でニヤニヤと訊ねてくる。この男に知られたのは本当に失敗だったと、十座は眉をつり上げた。
「いいんだよ、今日は」
「ふぅん。残念だったな兵頭。せっかく予定空いたのに、左京さんの方が帰ってこねーんじゃ」
「……仕事なんだろ、仕方ねえ」
 万里には、というか秋組の連中には左京とのことが知られている。
 恋人同士になれたと、明確に宣言したわけではないが、多分気づかれている。
 十座が左京を好きなことは、もう随分前に知られていたし、左京がほだされてしまったのは、雰囲気で伝わっているはずだ。
 それでも変に気を遣ったりしてこないのが、十座にはありがたかった。
 二人きりになるよう仕向けられるとか、ペアを組まされることが多くなるとか、左京はそういったことを嫌う。特に芝居に関しては手厳しく、指導は容赦ない。
 左京の、そういったストイックさにも、惚れ込んでしまっている十座としては、そのスタンスを崩させたくないのだ。
「にしても……結構しんどいな……」
「泣き言かよ。お前が選んだんだろ」
「分かってるが、その、……時間合わなくてすれ違うってのは、キツイんだよ。てめーはそんなことねえんだろうがな」
「……まー、ねえわな。紬さんとの時間作るためなら、他のもんフルスピードで終わらせるし。つーか、正直無理だわ。キスする時間もねえなんてよ」
 万里は、そう言って無意識に自身の口唇に触れる。ほんのりと、十座の頬が染まった。
 万里にも、劇団内につきあっている恋人がいる。ちゃんと恋人同士になれたのは、彼のデレデレした、もとい幸福そうな顔を見た時に分かったし、恋人である月岡紬が、頻繁にこの部屋に訪れるようになったことからも、窺い知れた。
 ――――いいよな、摂津は。こういうことも器用なんだろ。
 十座は着替えを終えて、大きなため息を吐いた。
 自分が不器用なことは自覚していて、学業ももちろんのこと、人づきあい、芝居、それに初めてできた恋人との接し方。どれをとっても、うまくできているものはない。
 どうして左京が、自分の気持ちを受け入れてくれたのか、いまだに分からない。
『ごっこじゃない恋愛をしてやる』
『好きだぞ』
『十座』
 左京に言われてきた言葉は、今でも頭の中にある。体に染み込んでいる。
 あの時の幸福は言葉にしようもなくて、きっと左京には伝わっていない。
 もっと大事にしたいのに、少しもうまくいかないのだ。
 加えて、ここ数日はとある理由で左京と触れ合えていない。
 それが十座の不安と不満に、拍車をかけていた。
「つーかお前、左京さんが帰ってこねーの知らなかった方が不思議なんだけどよ。普段、そういうのやり取りしねーの?」
「……しねえ。たまに左京さんが、出先で土産いるかって訊いてきてくれるくらいか……」
「マジか。つきあっといてそれはねーわ」
「…………やっぱり、おかしいのか?」
 万里が心の底から驚いた表情を見せる。その反応を見るに、万里は紬といろいろなやり取りをしているのだろう。そういえばよく一緒にでかけているようだし、その相談かもしれない。
「や、別に……それぞれだとは思うけどよ……その、なんつーか、一緒にいねぇ時に何してっかとか、どこにいて何思ってんのかとか、気にならねーの?」
「気にしたってしょうがねーだろ。俺は左京さんの世界に踏み込めない」
「……俺時々、左京さんがヤクザだってこと忘れるわ。確かに俺らにゃ入り込めねえよな。てめーも面倒な相手に惚れてんなあ」
 濁すように、万里は視線を逸らす。入り込んではいけない世界だと、理解しているのだろう。いくらこの劇団に入るまで、犯罪スレスレのことまでやっていたとはいえ。いや、だからこそ、その世界の厄介さを知っている。
 ただ、劇団にいる時の左京は、怒ると怖いが恐ろしさはない。理不尽な暴力を振るってくることももちろんない。
 だから、日々を共にしていると忘れてしまうのだ。
 左京がヤクザだという恐れはない。稽古中に怒鳴りつけられることの方が、怖くて、楽しい。
「分かってて惚れたんだ、仕方ねえさ」
 そう言って笑う十座も、きっと同じなのだろうなと肩を竦めた。
「万里、十座、メシできたぞ。着替え終わってるんなら早く来い」
 その時、ノックをして臣が顔を覗かせる。時間が空いている時は彼が食事を作ってくれて、劇団は贅沢なほどに美味いものにありつける。豪華という意味ではなく、手の込んだ料理が目と腹を満たしてくれるのだ。
 たまに総監督であるいづみのカレー攻撃に遭うも、それにももう慣れてしまっていた。
「うーっす」
「あざっす」
「あ、そうだ十座。昨日お前いなかっただろう。シュークリームあるから、早めに食ってくれ」
 ダイニングに向かう途中、臣がそう言って振り向いてくる。シュークリームと聞いて十座の顔がパッと華やぎ、隣の万里は呆れた表情を向けてきた。
「ほんと甘ぇもん好きだよな、兵頭」
「……っ、うるせ、…………昨日?」
 その顔で、とからかってくる万里に十座は顔を赤らめるも、不思議なことに気がついた。
 臣がよく、自分のリクエストでデザートを作ってくれるのだが、昨日は帰らないことを事前に告げていたはずだ。ナマモノなら、その日の内に食べた方がいいことは分かっているだろうに、どうして自分の分まで用意してしまったのかと。
「迫田さんが持ってきたヤツな。結構ウマかったぜ」
「なんで迫田さんが」
 疑問には万里が答えてくれた。どうも迫田が劇団の皆にと持ってきてくれたらしい。
 それで、不在だった自分のもあったのかと納得しかけたが、
「左京さんの代わりに持ってきたんだよ。アニキが急用でこっち来れなくなったんで~! ていつものあの調子で。ほんとパシリ体質だよなあの人」
「こら万里。忠犬、……いや、違うか。左京さんのこと本当に慕ってるんだから、そう言ってやるな」
「あー、左京さんも満更じゃねーみてぇだしな。何だかんだで迫田さんには優しいじゃん」
 臣と万里は笑いながらダイニングに入っていくも、十座はどうしても納得ができなかった。
 左京が、たまに気まぐれで土産を買ってくることはある。本当にたまにだ。
 一緒にでかけた時、「そんなに美味いんなら劇団のヤツらにも買っていってやるか」と、優しい瞳で言ってくれる左京を知っている。
 だけどそんなのは建前で、寮でも十座が楽しめるようにと「全員への土産」にしているにすぎない。それは自惚れかもしれないが、左京の土産は九割が一緒にでかけた時なのだ。
 昨日は、一緒にでかけたりしていない。それに自分が帰らないことは言っていたはずで、なのに「全員」分を土産にするなんて、節約を心掛けている左京にしては珍しい。
 ――――左京さん……何かあったのか?
 らしくないことをしている。数を間違えるなんて、と十座はポケットから携帯端末を取り出す。だけどなんとメッセージを送ればいいのか分からない。
 本当に厚意で、疲れていて数を間違えて買ってきたのだとしたら、機嫌を損ねることになってしまわないか。
 ただでさえ二人きりの時間が取れてなくて寂しいのに、怒らせてしまって、せっかくのやり取りを台なしにしてしまったら、と思うと、なにも文字が打てない。
 仕事がゴタゴタしているらしいが、いったい何があったのか。一応恋人であるはずの自分にも、なんの連絡もないなんて。
 十座を含め劇団の連中が、その世界に踏み込むことをよしとしていないのは分かる。こっちの世界に来やがったらブッ殺すと言われたことも覚えている。その理由と気持ちは分かっているつもりだ。
 だけど、もどかしい。
 同じ寮内で暮らしていてさえ、左京とはすべてを共有できていない。恋人だからといって、共有しなければいけないルールはないが、左京が今何をしているのかくらい、知っておきたい。
 万里にはああ言ったものの、気にならないわけがないのだ。
 ――――電話、とか、したら……迷惑、だよな、やっぱり……。
 立て込んでいると分かっていて、左京の邪魔はできない。声が聞きたかっただけなんて言ったら、きっとまたガキ扱いされるに決まっているのだ。
 歳が離れていることを気にしているのは、多分自分の方だ、と十座は思っている。
 左京は大人で、自分の知らない世界で生きていて、経験も、考えも、自分より多い。早く追いつきたいのに、左京はまだずっと先にいる。
 ――――逢いてえ……。
 少しの時間だけでいい。顔が見たい。
 肌を合わせたいなんて贅沢は言わないから、いやできればキスくらいはしたいけれど、本当に顔を見るだけでもできないだろうかと、思いきってLIMEでメッセージを打ち込んだ。
『左京さん、逢えないっすか?』
 送信ボタンをタップしたその瞬間、玄関のドアが開く音が聞こえた。
 十座は顔を上げて、まさかと思いつつ玄関へと足を向ける。もしかして逢いたい思いが通じたのかと、若干非現実的なことを考えて。
「左京さん!」
 だが案の定、そこには古市左京の姿。
 顔が見られた嬉しさで、思わず駆け寄った。
「兵頭……」
「よかった、左京さん。今日帰ってこれねえかもしれないって聞いてたんで。逢えて嬉しいっす。その、仕事、平気なんすか」
「あ、ああ……まあ、なんとかな」
 疲れた表情に気づいて、十座は目を瞬く。
 仕事の話をするのが好きじゃないのは知っていて、あまり話題にはしないようにしていたのだが、つい口から出てしまった。
 機嫌を損ねていないといいのだがと思って、そこで、気づく。
 左京から、慣れない匂いがすることに。
 いや、これは、ある意味慣れた匂いでもある。
 十座は眉を寄せ、じっと左京を睨みつけた。
「……なんだ。連絡しなかったこと怒ってんのか? 女々しいこと言うんじゃ――」
「左京さん、どこっすか」
「あァ?」
 低い声でそう呟き、ぐっと肩を掴む。
 コートの下、いつものジャケット、その下。いつも好んで着ている黒のハイネックではない。グレーのワイシャツなんて、普段左京は着たりしない。
 仕事で必要だったのだとしても、この匂いを見過ごすことはできやしなかった。
「どこ怪我してんすか」
「なっ……」
 眼鏡の下で左京が目を見開く。気づかれると思っていなかったのか、驚愕に染まったそのアメジストを、十座は怒りだけで睨み返した。
「け、怪我なんてしてね……っ、おい兵頭!」
 隠すつもりなのか、左京は素直に認めてくれない。そっちがその気ならと、コートの襟に手をかけて一気に引き下ろした。やはり、それだけでも色濃くなる匂い。
「左京さんから消毒液の匂いがする」
 それに気づかないとでも思っているのかと、ジャケットのボタンに手をかける。
「兵頭やめろ! おいっ……」
 ドン、と玄関のドアに左京の背中がぶつかる。普段ならそれを抱き留めるはずの腕は、今は左京の体を暴くことにしか使われない。ばさりと、ジャケットが床に落ちて音を立てる。
「あれっ、左京にぃ帰って……――十座サン!?」
「おかえりなさい左京さん、……十座、何してるんだ!」
 玄関での物音に気がついたのか、ダイニングの方から臣や太一が顔を出す。彼らの目に入ったのは、疲れて帰ってきた左京を押さえつけている十座の背中、だっただろう。
「はぁ? おい兵頭、ちょっと待て、いくらタマッてるからって、そういうのはなあ」
 そこに万里も加わって、十座を止めようとしてくる。何かあったのかと、心配そうにあとをついてくる他の組の連中を、太一が必死でなんでもないッスよ~と止めているのが、どこか遠くの方で聞こえた。
「十座、おい」
「おいって、兵頭――」
 そうして、十座を左京から引き離そうとしていた臣と万里の手が、強張る。
「……左京さん……?」
「なんだよ、これ」
 二人とも、十座と同じように気がついたのだろう。万里も臣も、ケンカ慣れしているせいか、消毒液の匂いにはなじみがあるはずだ。いつもの穏やかな顔が一変、臣さえもが険しい表情をしていた。
「怪我、してるんですか? どこっ……」
「おいオッサン、今さら隠してんじゃねーよ、分かんだよそういうのは!」
 止めようとしていた臣たちまでもが、左京を責め立てる。ついには十座の手で剥がれたシャツの下に、薄いガーゼとそれを覆う包帯を見つけられてしまう。
「……っ」
「ど……この、どいつだ、んな傷……!」
「左京さん、相手分かってるんだろ。教えろ」
「左京にぃ」
 息を飲む十座と、ぎりと歯を食いしばる万里と、昔の口調に戻ってしまっている臣と。その後ろで、太一が外へと続くドアをじっと睨みつけていた。
 ハッとした左京にドンと突き飛ばされた十座だが、怪我をしていない方の腕をぐっと掴み直す。その力が強すぎたのか、左京の顔がしかめられた。
 だが十座は、今この腕を放すつもりはない。
「お、お前らには関係ない、ちょっと、仕事でへましただけだ」
「関係ないわけないッスよ左京にぃ! 俺っちケンカはからっきしだけど、こんなの絶対許せないッス!」
「でかい声出すな! 他の組の連中に余計な心配かけさせんじゃねえっ……」
「そう思ってんなら、相手言えよ。秒でヤッてくっから」
「左京さん、俺らは仲間傷つけられて黙ってられるほど、オトナじゃないんだ」
 三人分の凶悪な視線で、左京を責め立てる。
 毎日を一緒に過ごして、同じ空間で稽古をこなし、舞台を踏んで、知り合った当初から考えたら、ずっと近い存在になった。
 それなのに、この期に及んで関係ないなんて言われて、万里たちは左京に対しても怒りがあるのだろう。十座の右から左から、詰め寄って詳細を訊ねかける。
「左京さん……」
 そうして、今の今まで声を失っていたような十座から、低い声が発せられた。
「アンタが怖い。今初めて、そう思う……」
 左京が目を瞠る。
「怖くない」と、どこか互いに傷を舐め合うように伝えあってきた言葉が、今初めて否定された。
「ハ、今さら……俺がヤクザだって知ってて惚れたんだろうが。案外小せぇやローだな、兵頭」
 左京の落胆が目に見えて、万里が、臣が、太一が目を瞠る番。
 十座からのアプローチだったことは知っているが、左京の方も、憎からず想っているのを感じていた身としては、この状況が良くないことだけは分かる。
 確かに十座は民間人で、ただケンカが強いというだけの高校生だ。左京の世界を理解しろと言っても、怖いものは怖いだろう。
 だけど今ここで、左京を突き刺す言葉の刃は控えろと、万里が諫めるためにか十座の腕に手を伸ばした。
「おい兵頭――」
「ヤクザだってのが、怖いんじゃない」
 それよりも早く、十座は左京の両隣に手をついて、正面から視線を合わせた。
「アンタがいなくなることが、怖い。アンタの世界のことはよく分からねえが、それは、受けなきゃいけねえ傷だったんすか」
 左京が再度目を見開く。
 その瞳は自分一人しか映っていなくて、十座はどうしてか安堵してしまった。
 まだ、ちゃんと見てくれている。見える距離にいてくれる。
 手の届かない相手だと思っていたのに、幸運にも届いてしまって、抱きしめられる位置にある。
 それなのに、住む世界が違うのだと突きつけられて、さらに「関係ない」と言われてしまって、怖くなった。
 いつか、左京がいなくなってしまうのではないか。
 そんな不安を、口にしていいものかどうか。またガキ扱いされてしまわないか。
 左京には左京の世界がある。それは分かっているのに、そこに踏み込む自分を、彼はどう思うだろう。
「どうしてアンタは、自分を大事にしてくれねえんだ、左京さん」
 そうして、十座は両腕の中に左京を収める。収まってしまうほどなのに、その肩にどれだけのものを背負っているのか。
 案外華奢なひとだと、抱きしめるたびに思う。左京の体に薄く残る傷痕をいくつか知っているが、それに触れるたびに悔しくなることを、この人は知っているのだろうか。
「兵頭……」
 左京の静かな声が耳に届く。それは好きだと告げたあとの呆れにも似た音で、ああやっぱりガキ扱いされてしまうのだと、左京を抱きしめたままきつく目を閉じた。
「左京さん。みんな、十座と同じ気持ちですよ。お仕事でも、やっぱり、その、危険なことはしてほしくないというか……」
「伏見……」
「つか、どういう状況だったかは分からねーが、そんな怪我するとか歳なんじゃねーの、オッサン」
「あァ?」
「お、お礼参り? とか、落とし前? つけに行くなら、俺っちも行くッスよ! ヨーヨーで攻撃とか、ほら!」
「どこのスケバンだよ……」
「左京さんそれ多分、太一には分からないですよ……」
「なんでてめーは知ってんだ」
「いや、那智が二代目好きで」
 そう言って笑う臣に、ようやく張り詰めた空気が溶ける。十座は耳元で、左京のため息を聞いた。
「気持ちだけもらっとく。これは、俺の問題だ。てめーらを巻き込むつもりはない。ありがとうな、怒ってくれて」
 そんな風に言われてしまったら、怒りを収めるほかにない。左京からの礼なんて、珍しいにも程がある。
「まあアンタらのやり方ってのがあるんだろうし、……暴力沙汰とか、カンパニーにも迷惑かけちまうしな」
「そうだな、こういう時、昔とは違うんだって、いい意味で実感するよ。ほら太一、メシにしよう。冷めるぞ」
「はいッス!」
 万里が、臣が体を翻す。忠犬のように、太一がそのあとについた。だけど十座は、まだ左京を離せないでいる。
「ほら兵頭、いい加減に離せ」
「嫌っす……」
「駄々こねんな」
 ぽんぽんと背中を叩いてなだめられるも、腕は緩められない。
 だって左京はきっと分かってくれていない。
 左京がいなくなることが、十座にとってどれだけ恐ろしいことか。
「仕方ねーなお前は。……外、行くぞ」
 他の団員もいるところでは、ろくに話もできないと、左京は衣服を整えコートを羽織り直す。
 左腕を通すとき、わずかに眉がひそめられたのを、十座は見逃さなかった。
「左京さん、腕」
「いいから。ちょっと、……大事な話がしてぇ」
 そんな左京を気遣って、外出は止めようと言いかけたのだが、支えかけた腕をやんわりと押し戻される。支えることさえできないのかと、十座は寂しい気持ちを隠せなかった。
「摂津、ちょっと外出てくる。稽古は……ちょっと勘弁してくれ」
「あー……、いっすよ別に。そいつなだめんの大変だろーし?」
「悪いな」
 左京の苦笑がすぐ傍で聞こえる。
 万里を締め上げるのはひとまず置いておいて、左京に背中を押され、十座は仕方なく玄関のドアを開けた。
 寮を出てすぐ、どこへ行くとも告げず歩き出す左京について、十座は足を踏み出す。
「これな、四針縫ってる」
 ぽつぽつと立つ街灯のおかげで、この時間でも明るいが、話題は少しも明るくない。四針縫ったという言葉に、十座は左京を勢いよく振り向いた。
「よ、……そんなに、ひどいんすか」
「マシな方だ。親父の……組長の心臓狙ってたヤツだからな。避けきれなかった俺のミスだよ」
 十座は青ざめる。
 なぜ左京が、その傷を負った時のことを話してくれるのか分からないが、下手をしたら命に関わることではないのか。そもそも昨日の今日で、出歩いたりして平気なのだろうか。
「左京さん……ひとつ訊いてもいいすか」
「なんだ」
「もし俺が怪我したら、アンタどう思う?」
 左京が怖い。
 恩のある男に命を張るのが男のロマンだなんて、十座には言えないし、それで怪我をして、誰かひとりでも喜ぶと思っているのだろうか。もし逆の立場だったら、左京はどう思うのか。
「自分を大事にできねえヤツが、誰かを大事にできるんすか、左京さん」
「それは……」
 左京が歩みを緩め、立ち止まってしまう。否定をしてはくれないのか、と口唇を噛みしめて、三歩先で十座も立ち止まった。
「……それは、俺がお前を好きじゃないと思ってるってことか?」
 抑揚のない左京の声と言葉に驚いて、十座は勢いよく振り向く。左京はまっすぐに見つめてきていて、心の底からの言葉なのだと分かる。
「左京さん、違う、俺はもっとアンタに」
「お前が怪我をさせられたら、多分……お前を殴るだろうな、俺は。役者なんだからつまんねぇ怪我してんじゃねえって」
「左京さんだってそうだろ! 今だって腕上がらないんだろう、そんな怪我、役者がするもんじゃねえ」
 十座は三歩分を二歩で戻り、左京の肩を掴んで揺さぶった。しかめられる顔は痛みを表しているのに、どうしてそれを「大したことない」などと言うのか。
「アンタの生きてる世界をどうこう言いたいんじゃない、危ねえことしねえでほしいって言ってるだけだろ、なんで……っ」
 伝わらない。分かってもらえない。
 そういえば、初めて左京に好きだと言った時も、伝わらなかった。分かってもらえなかった。
 十座は自分が口下手なことを自覚していて、だけど口下手なりに大事なことは伝えてきたと思っている。
 だけど実際、どれだけも伝わっていなかったのかもしれないと思うと、悔しくてしょうがない。
 芝居ができないという悔しさなら、稽古を重ねればクリアできる問題だ。
 だけど、肌を合わせてはいても所詮他人の左京に、この心の中すべてを伝えるには、どうしたらいいのか分からない。
「左京さん、頼むから約束してくれ。もう危ねえことしないでほしい」
 ヤクザの世界が、どんなルールに則って回っているのか十座には分からない。分かるのは危険が多いことくらい。
 その世界に身を置いている左京に、危ないことをしないでほしいというのは難しいだろう。
 だけど気持ちの上だけでも、約束してほしかった。
 それなのに左京の視線は下向き、目蓋が伏せられた。
「すまん、約束はできない」
「左京さん」
「兵頭。俺はお前をそれなりに想ってる。最初はお前からだったとしても、いつか言った通り、ちゃんと、好きだった」
 想っている、と左京から言われているのに、悪い意味で胸が騒ぐのは初めてだ。
 好きだった、というのは過去形で、どうして今過去形になってしまうのか分からない。十座の胸が、ドキンドキンと大きな音を立て、胃がずしりと重くなる。
「お前を大事に想ってないわけじゃない。だけど俺が今優先しなきゃなんねーのは、俺を拾ってくれた親父と、俺を受け入れてくれたカンパニーだ。一に親父、二に芝居、三に……自分で、お前はその次くらいか」
「そ、それで問題ないだろ……なんで……過去形に……」
「親父のために命を張らなきゃいけねえ時がある。お前がそれを受け入れられねえのも分かる。同時に複数のもん守れるほど器用じゃねえんだよ。お前を大事にできねえ」
「左京、さん」
「だからもう、…………終わりにさせてくれ」
 頭の中が真っ白になった、気がした。
 左京が何を言いたいのかは分かる。分かっても、納得ができない。いやだと叫びたい。叫びたいのに、喉が凍りついて何も音にできなかった。
「悪いな、こんな結果になって。次は、カタギの女を見つけてくれよ」
「さ、」
 やっと音にできるかと思ったその瞬間、左京の口唇が重なってくる。目を閉じることができなかった。
 目を閉じて次に開けた時には、きっと部屋のベッドで寝ていて――なんて夢落ちにできる状況でもないのに、閉じてしまったら、その瞬間に左京がふっと消えてしまいそうで、できなかった。
 至近距離で瞳が出逢って、いやだと小さくうごめく口唇を押さえつけられて、何もさせてくれない。抱きしめて閉じ込めることさえさせてくれずに、左京の体は離れていった。
 引き止めたいのに、腕どころか指先さえ硬直して、左京の名を呼びたいのに舌先さえ固まって、音などひとつも出てこない。
 十座は左京の背中を見送ることしかできなくて、ただ茫然とそこに立ち尽くした。



2017/11/23
【装丁】A5表紙FC/86P/800円/R18
【書店】とらのあな様
【あらすじ】シリー最終です
数日様子がおかしい十座。部屋に来ないどころかキスさえしてこない。もしかしてそろそろ「潮時」が来たのかと悩む最中、 左京は怪我を負ってしまう。「自分を大事にしてくれ」という十座の願いを聞いてやれず、左京が切り出したのは別れ話だった。
  
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