華家



八月を愛してる


 指先に、慣れた感触。その感触を梳いて、ゆっくりと撫でた。
 クーラーの効いた部屋で緩やかに流れる時間は、至の中で案外と大切なものになっていた。

「暑くないですか?」
「……平気」

 そう、と至はまたそれを撫でる。
 恋人の、少し汗に湿る髪を。
 珍しくゲームもせず、膝に頭を乗せる千景の髪を撫でる時間が、増える月がある。
「茅ヶ崎、……悪い」
「いえ、構いませんよ。先輩のこと甘やかせる時間だし」
 至はふふっと笑った。千景もその言葉にわずかに口の端を上げたが、それでもいつもの笑顔ではなかった。

 八月――千景の感情が、不安定になる。
 その理由をしっかりと聞いたことはない。ほんのりと分かっているのは、千景の大切な誰かに深く関わっているということくらい。そして恐らくは、もうこの世にいないひと。
〝オーガスト〟
 いつだか千景が口にしていた音。八月――その人の、大事な名前だろうか。
 千景のため息が多くなる月。窓から空を眺めるのが多くなる月。耐えるように歯を食いしばることは多くなるのに、睡眠が少なくなる月。
 そして、ほんの数刻でも離れていたくないと、至に触れたがることが多くなる月だ。

 ここは、少し前まで過ごしていたMANKAI寮の103号室ではない。団員が増え、通うのが難しいメンバーらに部屋を譲り、今は千景と至が二人で暮らしている。劇団のすぐ近くのマンション、奇しくも部屋番号は103だった。
 一緒に住むから出費は少ないよ、と千景が言った時は、他のメンバーに気を遣わせないための方便だと思っていた。
『2DKじゃ狭いかな』
 住宅情報誌を指さして告げてきた時は驚いたものだ。千景は自分で別に部屋を借りているのだから、そちらに移るのだと思っていたのに。
『一緒に……住むんですか?』
『住むだろ?』
 あなたがいいなら、とかなり動揺しながら答えたのを覚えている。
 職場へ住所変更の申請をしなければならないのは、憂鬱だった。何かとマイノリティな話題が出始めた昨今だが、いまだに理解は少ないだろうし、偏見も差別もある。
 そんな中で、同じ劇団仲間とはいえ一緒に住むともなれば、嫌でも騒ぎになるだろう。直接的な攻撃はなくても、ひそひそとあることないこと囁かれるに違いない、と思っていた。住所は劇団のままでいいのではないかと、相談に行こうとした時、『守るよ』なんて言って千景はキスをしてくれた。
 丸め込まれたような気もしたけれど、職場では案外すんなり受け入れられてしまった。
 単純にルームシェアなんだろうと思う人もいれば、流行りのアレかと敬遠する人も。女性陣は何人か本気で泣いたらしいが、下手な女に持ってかれるくらいなら美形二人でくっついてくれていいと影から見守られている。
 そんな状態で、二度目の八月。

 たぶん、こんな風に弱った状態を、劇団の家族には見せたくなかったのだろう。
 だけど、ひとりきりになる勇気もなかったに違いない。

 八月を過ごす――そのパートナーに自分を選んでくれたことが、至には嬉しかった。
 さら、さら。
 ゆっくりと手を動かす。閉ざされたままの目蓋は、信頼と安堵の証し。
 守るなんて言った男が、こうして弱みをさらけ出してくれる。大事な世界に在ることを、許容し、望んでくれる。

「茅ヶ崎の手は気持ちいいな……」
「そうですか? 千景さん、こんな時だけほんと可愛いんだから」
「こんな時だけって、ひどいな」
 髪を撫でていた至の手に、千景の手が重なってくる。こんな千景を知っているのは、至だけだ。以前からの知り合いである密にも、たぶんこんな部分は知らせていないに違いない。
「だって、職場じゃ猫かぶってエリート面してるし。劇団でも年上ぶって。いつもみんなのこと優先してた」
「そうだっけ……それにしても、猫かぶりってのはお前に言われたくない」
「お互い様、ですね。……ねえ先輩、俺、八月って、暑いしセミうるさいし、いいことなんて〝アイスが美味しい〟くらいしかないって思ってました」
「……八月、嫌いか?」
「いえ。先輩がこうやって甘えてくれるし、一緒に過ごす時間増えるし、……あなたが八月を愛してるの知ってるから、大好きですよ、千景さん」
 至は腰を折って、千景の唇にキスをする。最近柔軟をサボッていたせいか背中がわずかに痛むけど、触れる口唇を離す気はさらさらなかった。



2018/08/18
お題は「膝枕」と「八月(オーガスト含む)」
  
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