華家



こういうところ


 水曜日は、ノー残業デー。
 の、はずだ。それなのにどうして、まだデスクにいるのだろう。
 茅ヶ崎至は、パソコンの前で大きなため息を吐いた。
来週取引先の企業相手にプレゼンがあるのだが、うまく資料が上に通らない。訴求力が弱いだのもっと分かりやすい説明が欲しいだの、無理ではない難題がぽんぽん飛んでくるのだ。いったいどこまでを求められているのか、終わりが見えない。

 だけど仕事はこれだけではなくて、かかりっきりになれないのがつらいところである。日々の仕事をこなしてから、空いた時間で資料を作らなければならない。
ゲームのデイリー課題をこなすのは得意だが、仕事はやる気が出ない。
 そうやって後回しにしてしまったツケが、今、こんなところで。
 この仕事がなければ、今頃は寮で美味しいご飯を食べて、面倒くさいけどお風呂に入って、笑い声の聞こえるあの空間でゲームを楽しんでいただろうに。
 そう思うと、この資料にOKを出さない上司が恨めしくも感じられた。

「何が足りないんだよ、マジ殺したい」

 タン、と乱暴にエンターキーを押す。もちろん、同僚たちが全員返ってしまっているからこそ出る悪態だが、たったひとり、それを聞いている男がいた。

「口が悪いな、茅ヶ崎」
「――先輩!? は? な、なんで……とっくに帰ったはずじゃ」

 会社の先輩で、劇団の仲間である卯木千景が、背後から声をかけてくる。気配なんかまるでなくて、文字通り飛び上がりそうなほど驚いた。もっとも、至に人の気配が探れるかどうか、そもそも分からないところだが。
 しかし千景は自分の仕事を終えてとうに退勤しているはず。なぜここにいるのだろうか。

「帰ったよ。お前がまだ帰ってこないみたいだったから、戻ってきた。さっきLIME入れたのに」
「え? あ、すみません、気づかなかった」

 言われて携帯端末を確認してみれば、確かに千景から心配するようなメッセージが届いている。
見ていなくてよかったと思ってしまった。
何しろたまにデレるこの恋人は、至の心を簡単に持っていってしまう。仕事どころじゃなくなるはずだ。

「どこで詰まってるんだ。今日残業ナシの日だろ、サビ残するとまずいんじゃないか」
「そう言われても、上がGOサイン出してくれないんですから……」

 正直どこで詰まっているのかも、自分では分からない。上の求めるものが、少しも見えてこないのだ。

「見せて。それと、ちゃんとメシ食え。テイクアウトの買ってきてやったから」
「カレーじゃないですよね」
「カレーがよかった?」
「昨日三食カレーだったんで、それは嫌です」
「だろうね。この時間だし、お茶漬けだよ。出汁茶漬けの店、近くにできてただろ」

 言って、千景は至の前にビニール袋を差し出してくれる。使い捨て容器に入ったご飯と具材、そして温かなお出汁。

「あそこ、テイクアウトやってたんですか……ありがとうございます」

 その温かさは千景の優しさと相俟って、疲れた心を癒やしてくれる。至はありがたくその差し入れをいただき、白飯の上に焼き鮭を乗せてお出汁をかけた。食欲をそそるほのかな匂いが、体中に染み渡ってくる。

「ふぅん……なるほどね」

 その間に、千景は至の作ったプレゼン資料を見てくれている。その言い様は、やはり千景の目から見ても何かが足りないのだと知らされた。

「やっぱ、駄目そうですか?」
「駄目というか、伝わりづらい、かな。これS社だろ、あそこは古株多いから、少し頭が硬いんだよ」

 少し待ってて、と千景は資料をプリントアウトして、改善案を提示してくれる。こんなところを見ると、千景はやっぱり〝先輩〟なのだなと、変なところで感心してしまった。請け負っている取引先が違うせいか、直接指導を受けたことはなかったが、千景の成績が良い理由が少し分かった気がする。

「B社の時は、若手が多かったんだろう。新しいモノを受け入れようとする思いがたぶん強くて、契約取れたんだと思うぞ」
「あ、……確かにそうだったかも。じゃあ、ここもう少しシンプルにした方がいいですよね」
「そういうこと。違う会社なんだから、それぞれに合った資料を作った方がいい」
「情報収集も仕事のうち、ですか」

 先輩の専売特許ですねと付け加えると、勝ち気な笑顔を向けられた。
卯木千景のこういうところが、無性に腹立たしい。腹立たしいほど、胸が高鳴る。心が疲弊していたことも忘れて、千景に甘えてしまいたくなる。

「先輩、ほんとずるい……」
「そう? 言っておくけど、こんなことしてやるのお前だけだぞ」
「余計タチ悪い」
「お前が俺にときめいてるのは分かったから、それ早く食べて。資料直したら、早く出るぞ。運転は俺がしてやる」

 至れり尽くせりで、いっそ気味が悪い。千景に何かあったのだろうかと、不思議に思って視線を向けてみれば、手首につけた腕時計をトントンと指された。

「早くお前にキスをしたい。せっかくノー残業デーだから、時間多く取れると思って、待ってたんだぞ」

 絶句して、顔を赤らめる。きっと彼の運転する車がまっすぐ寮に向かうことはないのだろう。
 やっぱり卯木千景のこういうところが、無性に腹立たしいと思いつつ、至は残った出汁茶漬けに手を伸ばすのだった。



2018/06/30
お題は「水曜日」
  
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