華家



俺のCandy Star!


万里サイド

 キッチンへ向かえば、冬組の連中が集まって何やら話し込んでいた。その中には、当然紬もいて、少し気が引ける。
 ――――このタイミングな。
 よりによって、今でなくてもいいだろうに。だけど普通にしていなければと、口唇を引き結んだ。
「あれっ、万里くん。至さんとこでゲームじゃなかったの?」
「ちょい休憩な。なに、監督ちゃん、モメてんの?」
「あ、ううん、そうじゃないの、大丈夫」
 総監督である立花いづみに声をかけるが、深刻なケンカの類いではないらしい。結成したばかりの冬組だ、まとまるにはもう少し時間がかかるのだろう。
 自分のカップにコーヒーを注ぐ。インスタントではやはり美味しくないだろうな、と思うと、どこかカフェで美味しいコーヒーを飲みたい。
 ふと視線を上げると、コーヒーの匂いに気がついたらしい紬と、視線がかち合ってしまった。
「インスタント?」
「……美味いコーヒーは外で飲めるし。なに、冬組みんなして集まって。どっか出掛けんの?」
「あ、うん。密くんがさ……もう一週間も経つのに部屋に何もないんだよね。最低限のものくらい揃えておかないと……お布団とかチェストとか」
「あー、そういや文無しなんだっけか。どこでも寝てるみてーだし、特に困ってないのかと思ってた」
 冬組に所属する御影密には、記憶がない。記憶というか、御影密という名前以外、何もない。金も、過去も。
 秋組も大概変な連中ばかりだと思っていたが、冬組も相当なものである。
「布団以外で寝てて、体痛くならないかな……俺なんか無理だなぁ……」
「まー俺も布団は好きっすけど」
 特にふかふか柔らかな布団は。そこまで思って、万里は顔が火照るのに気がついた。
 紬に向かって、「好き」という単語を発してしまったせいだろう。
 布団に対して言っただけであって、決して紬を好きだと言ったわけではない。
 それなのに、余計なことに気づいてしまいそうで、心臓がドックドックと跳ねた。
「あはは、俺も好きだよ」
 そう返されて、思わずカップを取り落としそうになる。内臓か何かが出てきそうな口許を押さえ、万里は紬から顔を背けた。
 ――――布団! 布団のことだっつの! 俺も、向こうも!
 好きと言ってしまった。好きと言われてしまった。
 互いの頭には確かに布団があるのだけれど、万里の方は、そこからいかがわしいことに?がってしまいそうで、ふわふわ浮かんでいる思考を、ぱたぱたと手で仰いで散らす。
「あー、そんであれか。冬組みんなでお買い物ってか。仲がよろしいこって」
「……うん、親睦を深めるためにも、いいんじゃないかなって、思うけど」
「ふぅん……大丈夫すか? アンタ……丞さんとなんかワケありっぽいけど」
 万里は、出掛ける仕度をしてやってきた丞を紬越しに眺める。面倒そうな顔をしているが、彼も一緒に行くのだろう。
 幼馴染みだというのに、よそよそしいどころか険悪なムードになるところを、万里も見ている。
 それを含めてのお出掛けならば、万里が口を出すことではない。
 冬組として、早くまとまらなければ始まらないというのは、事実だからだ。
「な、なんで? 大丈夫だよ」
 紬はそう言って何でもないように笑うけれど、無理をしているのが明白だ。
 役者だというのに、こんなところは隠すのが下手である。
「……なら、いーんすけど。愚痴なら、いつでも聞いてやっから。そうだ、明日稽古の前か後か、どっちでもいーからカフェ行こうぜ。紬さんの気に入りそうなとこあるからさ」
 だけど万里は、紬を虐めたいわけではない。できれば笑っていてほしいのだ。
「え、本当? うん、行こう。楽しみにしてるよ」
 くるりと表情が変わる。
 ホッとしたような力の抜けた笑顔に、万里の中で何かがはがれ落ちていった。
 ――――あっ……。
 ざわりと、鳥肌が立つ。足下からせり上がってくる何かに、全身を支配されたような感覚を味わって、万里は熱を上げた。
「じゃあ、行ってくるね万里くん」
「あ、お、おー、いってらー」
 紬はひらひらと小さく手を振って、玄関の方へ駆けていく。
 その背中を視線で追いかけて、見えなくなってから思わずそこにしゃがみ込んだ。
 顔が火照る。手のひらが熱くなる。ドクドクと心臓が音を立てる。
 ――――やべェ……なにこれ……な、んなんだよ、これ……!
 自覚してしまった。
 自覚、してしまった。
 これは、恋だ。
 膝の間で項垂れてみても、息を止めてみても、一気に吐き出してみても、拳を床に叩きつけてみても、入れたコーラが氷で薄まりかけても、気づいた事実は簡単に覆ってくれそうにない。
「マジかー……」
 小さく呟いて嘆くけれど、さっき至の部屋にいた時とは明らかに違う部分がある。
 ――――俺、紬さんのこと好きなんかよ……。
 否定する言葉が出てこないことだ。
 ついさっきまで、絶対に違うと胸を張って言えていたのに、紬のホッとしたような顔を見たあとの今では、否定なんかしたくない。
 否定したら、彼のあの笑顔まで否定しているように思えて、できない。
 ――――どーすんだ、これ。さすがにイージーモードじゃできね……ってか忘れてた、コーラ。
 イージーモード、という用語で万里はようやく思い出す。至にコーラのロックを頼まれていたのだっけと。
 面倒そうに腰を上げ、テーブルの上に置いていたコーラのグラスと、コーヒーのカップを手に、至の部屋へと戻る。
 案の定、遅すぎると無茶なクエストを要求されたのだけれど、気づいてしまった最難関の恋に比べたら超イージーモードだと、万里は口許に無理やり笑みを浮かべてやった。





 古市左京は、ふとおかしなことに気がついた。
 いや、おかしなというのも語弊があるのだが、視線の先にいる男の仕草が、明らかに先日より良くなっている。
 摂津万里は勘の良い男だと思う。若いということもあるだろうが、技術を吸収しやすい素質もあるのだろう。
 入団当初からは考えられないほど、真面目に稽古に参加しているのは、当然と言ってしまえばそれまでだが、良い傾向だ。
『ランスキー、表はやっぱ固められてるぜ。どうする』
『どうするもこうするも、突破するしかないだろうルチアーノ』
『だーな。早いところこんなとこ抜け出して、いい女抱きてーわ』
『生きて帰って美女を抱くのが勝利者、か。お前はそればっかりだな』
 うるせーよ、とルチアーノが弾の装填を終える。ランスキーと視線を交わして、ふたり同じタイミングで足を踏み出し、敵側の弾を避けて突破口を作る――そんなシーンだ。犬猿の仲だったふたりの距離が一気に縮まる、見せ場でもある。
 秋組の公演としてここは成功を収めたし、素人の集団にしては、かなりできが良かった。
 四組ある劇団で、今は冬組のできあがりを待っている最中、順番的に言えば、そのあとは春組の第二公演が控えていて、秋組が舞台に立つのはまだまだ先になる。
 だからといって稽古をサボることはできない。慣れた旗揚げ公演、世に出ている映画やドラマのトレースなどを繰り返している。
 稽古に変化は付けているつもりだし、基礎力の底上げを、地道に行っていかなければいけない時期だ。
 だが、これはどうしたことだろう。
 ――――摂津の演技が、変わった……?
 具体的にどこがどう、というわけではない。
 アドリブを挟んでくるのはいつものことだし、それにどう返そうか迷う十座がいるのも、いつものことだ。だけど、違う。
「……伏見、摂津のヤツどう思う?」
「万里ですか? 上手いこと、みんなを引っ張っていくようになってくれましたよね」
 隣で二人の演技を見ていた臣に訊ねてみるけれど、左京の望んでいるような答えは返ってこない。
 入団当初の生意気っぷりを知っていれば、臣がそうやって安堵するのも分かるのだ。そういう意味では、望んだ答えでもある。
 ――――まあ小せぇ変化だしな……俺の気のせいかもしれん。……あ。
 そう思った端から、気のせいでないと否定もする。
 敵の弾がかすったのか、ルチアーノに血を拭う仕草が加えられている。先日にはなかったものだ。その仕草にランスキーが気づいて、さりげなくを庇うように立ち回る。
 万里の演技に引っ張られて、十座もどんどんのめり込んでいっているように見えた。
 そうして、シーンが途切れる。
「なあ、休憩はさまね?」
「ああ……ちょっと走りすぎた」
 場から二人が戻ってくる。かっけ~ッス、とタオルを渡すワンコもとい太一に、とーぜんだろと笑って返す万里をちらりと見やり、左京は隣にもたれた十座に顔を向けた。
「ずいぶん入り込んでたな、兵頭」
「……摂津のやろーがアドリブ入れてくるんで、なりきらないとやってらんねぇんす」
「ああ、切り返しがスムーズだった。上手くなったじゃねぇか」
「あざす」
 十座の、芝居に対する熱は、左京にとってもいい刺激になっている。
 一回りも下のガキどもと競えるか、と一線を置いていたのだが、そんな逃げを蹴散らしさえするほどの勢いがあるのだ。指導をすれば素直に受け入れるし、その通りに吸収していく。成長していく姿を見るのは、なんとも楽しい気分だった。
 今は言う通りにしかしてこないかもしれないが、やがては自分の意見と言うものを持って、左京とやりあうことになるかもしれない。
「兵頭。摂津の演技……何か気づいたか?」
「え? 演技、すか?」
 左京は今のシーンを、外野として見ていただけだが、同じあの場で演じていた十座には、どう感じられただろうか。
 そこに気づく段階までは、まだ成長していないかもしれないが、これをきっかけに十座自身の、そして左京自身の演技も変わっていくかもしれない。
 十座は少し考え込んでいるようだったが、師匠の問いかけには何かあるのだと気づいて、真剣に向き合ってくれている。
「どうって、なんかその……今日もアドリブは多かったんすけど、それは別に不思議なことでもねーんで、省くとして。……左京さんの言いたいことに適ってるかどうかは分かんねぇが……」
「なんだ?」
「なんか、丁寧っていうか……小さい仕草がやけに目についた、かな、とは……思います。目についたってのが正しい表現とは思わねーけど」
 正直、そんなに期待はしていなかったのだが、十座はちゃんと気がついていた。左京はひとつ瞬きをして、十座の言葉を引き継ぐ。
「良い意味で目立ってんだな。色気がある。指先の動きひとつ、視線のやり方ひとつ。弾の装填にぞくりときたのは初めてだ」
 ああ、と十座の納得が音になって返ってくる。正直、生意気なガキに使いたい言葉ではないが、色気があるというのは決していやらしい意味ではない。
「なんていうか、あれは」
「そうだな、あれは」
 他に表現できる言葉はないかと探して、口を開いた。
「艶、っぽい」
「艶っていうか」
 自分以外にもうひとつ同じ音がして、思わず隣を振り向く。驚いたことに、十座と声が重なったのだ。
 十座も驚いたようで、目をぱちぱちと瞬いている。
「……っふ、は、まさかな、お前の口から艶なんて出てくるとは思わなかったぜ。摂津相手になあ」
「……左京さん、それアイツにはぜってー言うなよ。あんなのにちょっとどきっとしたとか、知られたくね、……あ」
「したんだな」
「…………聞かなかったことにしてくれ……」
 左京は笑い、普段の二人からは考えつかない事態に、肩をすくめた。気まずそうに睨みつけてくる十座は、しまったと項垂れる。
 こういうところは素直なのに、どうして万里とはケンカばかりなのだと、息を吐いた。
「お前も、艶のある演技ってヤツ目指せばいいだろう」
「そんなん、簡単にできるもんでもねーだろうが……アンタと違って、俺はまだまだ、……力が足りねぇ」
「ま、そのうちな。しかし摂津のやつ……女でもできたのか? いい傾向ではあるが、……兵頭? どうした」
 じっとこちらを見つめたままの十座に気がつき、左京は声をかける。それにハッとして、十座は視線を背けた。
「女できると……ああいうのやれるんすか」
「別に女作れってんじゃねぇ。プライベートの変化は、芝居にも出てくる。誰かを真剣に想う気持ちはな、人を成長させんだよ。それくらい理解しろ、ガキ」
 ため息交じりにそう返してやると、十座は口唇を引き結んで俯く。きっとまだ恋のひとつもしたことがないのだろう。
 そう解釈して、万里の変化を思い起こす。
 指先の細かな動きは、惚れた相手に触れることを思ってのことだろうか。視線の中に含まれる熱は、惚れた相手を追いかける時のものだろうか。
 何にしろ、よい傾向である。
 あの生意気なガキを射止めた相手、というのも気になるところだが、演技に悪影響が出ないならば誰でもいいと、左京は腕を組んで満足そうに微笑んだ。




「紬さん、悪い遅れて」
「ううん、俺も今準備できたとこだから」
 万里は稽古のあと、軽くシャワーを浴びて玄関へと駆けた。そこにはもう約束していた相手が待っていて、心臓が跳ねる。
 しかし稽古は、同じような時間に終わるはずだ。万里がそこからシャワーをしていた時間を考えると、どうやっても十分は待たせている。
 ?が下手だよなあと思うくらいに、分かりやすかった。
「あ、シャワーしてきたんだ? この時期にシャワーだけって、寒くない?」
「へーきっすよ。つか稽古でトばしすぎてあっつかった」
「あはは……秋組の稽古大変そう」
 二人で約束のカフェに向かって歩き出しながら、先ほどまでの稽古のことを呟き合う。
 冬と言われる季節だ、ほんの少し肌寒くはあるけれど、稽古のあとは不思議とそんなことを感じない。気持ちいいくらいに熱に浮かされて、他のメンバーに引っ張られながらも、新たな発見に?がるのが面白い。
「この間紬さんに教えてもらったマイム? やってみたんすけど……難しいすね。何やってんだって左京さんには不審がられたし」
「そんなに簡単にやられたら怖いな……。でも、万里くんにはすぐ追いつかれそう」
「俺、正直小さい動きとか仕草って苦手なんだよな。できるけど、キレイかっつーとそうでもないだろうし。そこらへん紬さんには勝てないっすよ。前も言ったかもだけど、紬さんの、仕草だけで伝える技術っつーのかな、すげぇと思うぜ。アンタの演技、好きだし」
 ひょいと顔を覗き込んで、口許に笑みを浮かべる。びっくりして大きく見開かれた瞳と出逢って、そこに自分が映り込んでいることに幸福を感じた。
 ――――アンタのこと、好きだし。
 そう、言えたらいい。
 この気持ちに気がついてからというもの、万里の世界は一変した。
 一八〇度とまでは言わないが、一五〇度くらいはくるりと変わってしまったように思う。
 紬のことを考えるだけで胸がくすぐったい。憂鬱だった朝さえ、紬の顔を見られると思うと嬉しい。芝居が面白いと思うのと同時に、紬に追いつきたいと思うようにさえなった。
 落とそうか、落とすまいか、未だに悩んでいるけれど、多分スイッチひとつで、転がり落ちてしまうだろう。
「そ、そうストレートに言われると恥ずかしいな……でも、ありがとう万里くん」
 気まずそうに視線を逸らして、恥ずかしそうに?を?く紬。彼らしい反応に笑い、万里は正面に向き直る。
 ――――へーきへーき、これっくらい想定内っしょ。……想定内、想定内。
 想定内ではあるが、予想以上に可愛らしかった。
 紬を好きだという気持ちは、もうごまかしようもなくて、否定するつもりもない。
 だけど、それと落としにかかるかどうかは別物だ。彼が女であれば、遠慮なく口説かせてもらうし、落とす自信もある。
 だけど、紬は男だ。
 万里とて男もイケるなんて今回初めて知ったし、普通は恋愛対象外だ。いや、男もイケるというよりは、紬だからだ。
 例えば中性的な東にも欲情なんてしないし、女装が好きな幸にも、年齢がどうこうでなく欲情しない。咲也の一生懸命なところは可愛いと思うが、だからって性的対象にはならない。ゲーム仲間の至にだって、いつか認めてもらいたいと思っている左京にだって、多少胃袋を掴まれた感のある臣にだって、欲情はしない。十座なんてもってのほかだし、もっと言えばいづみにだってそういう目を向けたことはない。
 紬だから、触れてみたい。
 紬のような丁寧な仕草で、紬に触れたい。抱き締めたい。キスをしたい。
 だが一方的な想いでどうにかできるのは、想像の中だけ。
 こんな劣情を目一杯含んだ感情を、紬が受け入れてくれるかどうか――無理に決まっている。
 よくて普通に振られるか、避けられる。悪くすれば軽蔑のまなざしを向けられて、ジ・エンドだ。
 どう考えてもうまくいかない。
 それに、紬の性格からすると、気にして引きずってしまうだろう。せっかく告白してくれたのに、せっかく好きになってくれたのに、傷つけてしまったと。
 下手をすればそこからさらに自身を卑下して、自信をなくしてしまうかもしれない。
 それが、万里が恋を打ち明けるのをためらう理由。
 紬にこの想いを告げて、自分が傷つくのは構わない。自分自身が選択したからだ。だけど、振ってしまった方の紬は、選択できない。落ち込みやすいんだろうなというのは、ここ数日接してきただけでも分かる。
 言いたいことを言えずに、欲しいものを欲しいと言えずに、我慢して溜め込んで、自分一人で抱え込もうとするひとだ、と見ていて分かる。
 そんな紬に、この感情を押しつけることなんかできるはずもない。
 ただでさえ、今劇団が大変なことになっているのにだ。
「なあ紬さん。そういやアレどーなったの」
「アレ?」
 お気に入りのカフェに着いて、お互いそれぞれ好きな物をオーダーする。緑の豊かな静かな店内は、紬の心を落ち着けてくれるだろうか。万里は頼んだキリマンジャロを口に含みながら訊ねる。
 紬は首を傾げたけれど、すぐに万里の言いたいことに気がついて、視線を落とした。
「うん、大変なことになっちゃったよね……ただでさえできあがってない俺たちの組が、まさかGOD座とタイマンACTだなんて」
 紬の声が沈んでいく。一緒に頼んだシフォンケーキを取り分けるフォークも、心なしか力がないように見えた。
 先日冬組がストリートACTに出掛けた際、GOD座主宰の神木坂レニに遭遇したらしい。
 万里はGOD座が嫌いだ。もともと芝居には興味もなかったし、この世界に入らなければ知らなかった劇団でもある。
 だが、どうしてだか向こうはこちらを敵視していて、カンパニーを潰そうと画策しているらしい。
 万里の率いる秋組も、かつてスパイを送り込まれた。今では立派にMANKAIカンパニーの一員である、七尾太一だ。
 舞台をめちゃくちゃにしようと命令していた連中を、力でなんとかするのは簡単だった。ただでさえ秋組はガラの悪い連中が揃っているのだ。
 だけどそれではカンパニーにとってよくない。GOD座を力でねじ伏せても、他の組に迷惑がかかる。
 拳に頼ることはできない。
 勝負するなら正々堂々と、芝居でやってやる。
 今回のタイマンACTを申し込まれたのが、もしも秋組だったら、間違いなくそう言って受けて立っていただろう。
 俺がいるのに勝てないわけがない、と言える持ち前の自信とポジティブさは、自慢である。
 だが、冬組はまだ一度も公演を経験していない。それどころか、五人中三人が素人だ。さらにそのうち一人は寝るのが大好きという始末で、稽古がちゃんとできているのかも怪しい。
「勝負を受けても、勝てる見込みなんてないじゃない……」
「受けねーの?」
「…………万里くんに、こんなこと言っていいのか分からないけど」
「……ん、なに」
 紬の視線が逸らされる。
 自分に自信が持てないのか、紬は遠慮がちに呟くことが多い。もっとぶつかってきてくれていいのになと、万里は紬から目を逸らすことをせず、じっと見つめた。
「自信がないよ……俺じゃなくて、丞なら、GOD座にいた丞なら、もっとみんなをリードして、うまく引っ張っていってくれると思うのに」
 確かに、そこは万里も不思議だった。
 紬は人の上に立つ野心家タイプではないし、自然と人が寄ってくるような、独特のカリスマ性があるわけでもない。
 悪い意味でなく、横から、後ろから、誰かをサポートする腹心タイプだと思っていた。丞を上手くサポートすれば、冬組としての完成は早かったのではないかと思う。
「でも、立候補したんだろ? ちょっとでも、やりたいって気持ちがあったんじゃねーの」
「……誰もいなかったからね。丞が手を挙げなかったのは、意外だった」
「あー……GOD座にいたからっていう、引け目でもあったんかな。ふぅん、でも、それで手を挙げるアンタは偉いと思うぜ? 他の連中のためでもあったんだろ。監督ちゃんも困っただろうし」
「違うよ。万里くんは俺を買いかぶってるよね」
 コーヒーカップを両手で持ち上げて、紬は苦笑する。
 万里は眉を寄せて少し首を傾げた。買いかぶっているというのは、どういうことだろう。
 そりゃあ紬と知り合って間もないし、こうしてカフェでお茶をするようになったとはいえ、プロフィールも知らなければ、プライベートなことなど何も知らない。
 今目の前にいる月岡紬という存在を、きっとまだ上辺だけしか知らないのだろう。
「どういうことすか」
「……みんなのためとかじゃないよ、自分のため。ああいうところで場がギスギスするのって苦手だし、それに……丞に言い訳したかったのもあるかもしれない」
「丞さんに? なんで。つかアンタら、何があったんだよ。幼馴染みって俺いたことねーけど、もっと仲いいもんだと思ってた」
 万里は少し逡巡して、思い切って切り出してみる。今まで意図的に避けてきた話題だ。
 丞との間に何かあったのは明白で、紬がそれを気にしているのも伝わってくる。
 自分たちの間がぎくしゃくしていることが、冬組をまとめられない、最大の原因であることも、紬は気づいているようで、もし聞くことで気持ちが軽くなるのならそうしてやりたいし、アドバイスができるものならしてやりたい。
「紬さん。……無理に話さなくてもいいけど、アンタはちょっと吐き出した方がいいんじゃね? 溜め込んでっと、そのうちブッ倒れるぜ。それこそ他のメンバーに迷惑かけることになる」
「う……万里くん痛いとこついてくるよね……。なんで分かっちゃうかな、溜め込んでるって」
「誰が見たって一目瞭然だろ」
 そう言って笑うものの、本当の理由は違う。相手が紬だから分かるのだ。
 紬の存在を知って、まだ少ししか経っていないし、恋をしてからで言えばもっと少ない。
 だけど、視線のすべてが、感情のすべてが、熱のすべてが、紬へと向かっていく。
 ――――アンタのことが好きだからだよ。アンタしか見てねぇからだよ。……気づけって。
 恋なんて馬鹿馬鹿しいと思っていたけれど、そう悪いものでもないと気づいた。それだけでも新発見だ。
 退屈だった人生に、突然降って湧いたような熱。
 芝居と、恋。
 恥ずかしくて誰にも言えないけれど、今の万里を形成する大事なものだ。
「……万里くん、俺ね、一回芝居から逃げ出したことがあったんだ。上手くやれてると思ってた。それなりに自信もあったんだ。でも、躓いて、一気に崩れちゃったみたいなんだよね。自惚れてた自分が恥ずかしかったし、俺にはやっぱり無理だったんだって、背を向けたんだよ。……丞は、それを怒ってるんだと思う」
 ぽつりぽつりと話し始める紬に、万里はゆっくりと息を吐く。
 逃げ出すという単語が、胸に突き刺さった。
 万里自身、一度カンパニーから逃げ出したことがある。自分ではそれを逃げだとは思っていなかったけれど、追ってきたいづみに指摘されて、秋組メンツの一人芝居を観て、焦りから逃げ出そうとしていたのだと気がついたのだ。
 だけど、万里はそこで引き返した。逃げることをやめた。
 このまま負けたくない、勝ちたい、認めさせたい。そう思って震えた心。
 紬はそうできなかったのだと思うと、なんと言ってやればいいのか分からない。
 その時一緒にいれば、どうにかできたかもしれないのにと思うと、出逢えてなかった事実が悔しくてたまらない。
「だから、リーダーを引き受けたのもね、もう逃げない理由を作ろうとしてたんだ。簡単に抜けたりできないでしょ?」
「あー……それ言われると痛ぇな……俺なんか辞めかけた時もリーダーだったし」
 ぽりぽりと頭を?きながらそう呟くと、紬は心底驚いた顔をした。
 入団する前のことなんて知らないのだから、当然といえば当然だが、紬こそ万里を買いかぶっていると感じてしまった。
「そ、そうなの? 秋組はケンカが多かったって聞いたけど……そんなに深刻だったんだ?」
「多かったっつーか、今でもケンカはするしな。つか俺のことはいいんだよ。俺が言いたいのはさ、逃げても、そのあとどうするかってことで。紬さんだって、もう逃げたくないって思って、ここに戻ってきたんじゃねーの?」
「う、うん……それはそうなんだけど……俺にはまだ、覚悟が足りないなって」
「真面目すぎんだよ、紬さんは。俺なんか覚悟とかねーし、いざとなったらアイツらがどーにかすんだろうし。だけど、だからこそ余計に逃げたくねえっつーかな」
 万里は秋組のメンツを思いふっと笑う。人に言わせれば、それは信頼というものだろう。一朝一夕でどうにかなるものではない。
「紬さんは、頼るの苦手なタイプっすか? そんな危なっかしいのにさ。紬さんが助けてってひとこと言えば、すげえ効力あると思うけどな。……俺なんか全力で手ぇ貸すし」
「……言えないよ、助けてなんて……」
 紬がしょんぼりと肩を落とす。
 ほぼ同時に、万里もしょんぼりと肩を落とした。
 もちろん紬には気づかれないようにだ。
 ――――フツーに流されたし。まーそうだろな、俺が紬さんのこと好きなんて、夢にも思わないんだろうし。
 手を貸す、と実は結構意を決して言ってみたつもりだが、紬には伝わっていないようだ。頭の中はそれどころではないのだろう。
「けどさあ、逃げることなんて、生きてりゃ誰にでも一回くらい経験あんだろうに。丞さんも、それでいつまでも怒ってつれない態度取るとか、ガキみてーだな」
「丞は悪くないよ。それまで一緒にやってたんだし、ひとりで勝手に逃げ出した俺が悪いんだから」
 ため息とともにそう呟いたら、紬から即座に反発が返ってきて、目を瞠った。
 あんな態度を取られていながら、紬は丞に悪意のかけらも持っていない。かといって無関心になるわけでもなく、関係を修復したいと思っているのだろう。それは「逃げていない」ことと同義ではないだろうか?
 後悔が根っこの方にあるにせよ、紬の芯は強いのだと気づく。
 それと同時に、気分が沈んだ。
「紬さんは……丞さんのこと好きなんすか」
 馬鹿なことを訊いたと思う。
 幼馴染みなのだから、嫌いなわけはないと思うのに、つい口から飛び出してしまった。
「え、だって幼馴染みだし……できれば、あの頃に戻りたいんだけどな……今そんなこと言ってる場合じゃないけど……」
「……そっすよね、悪い、変なこと訊いて」
 ガシガシと髪をかき混ぜて項垂れる。
 分かっているのに、丞に向かっている視線の半分でもいいから、自分にも向けてほしいと思ってしまう。言わなきゃ伝わらないと分かっているのに、気づいてくれよと身勝手なことを考える。
 ――――恋ってこんなもんだっけ? 馬鹿みてーじゃん俺。……嫉妬とか、かっこ悪い。
 心臓がズキズキと痛む。
 できることならここでかき抱いて、もっとこっちを頼ってくれと言ってしまいたい。紬の混乱が目に見えるから、絶対にできやしないのだけれど。
「でも、ありがとう万里くん。聞いてもらったらちょっと楽になったよ。万里くんみたいな子でも、逃げ出すことがあるんだなって思うと、ホッとした。……あっ、ごめん、あの、俺っ、そんなつもりで言ったんじゃ」
「あ? あー別にいっすよ、事実なんだし。あの頃の自分思い出すとマジで恥ずかしいんで、これ以上はナシな」
「……どんなだったんだろう。今度秋組の人たちに聞いてみよう」
「つーむーぎーさぁん、怒るぜ、んなことしたらっ」
 あははと、紬がやっと小さく笑ってくれる。万里はホッとして、冷めかけたキリマンジャロを口に運んだ。
 ――――好きだな、やっぱり……紬さんのこと……。
 改めて実感する。笑ってくれることが嬉しい。芝居でなく、他人の表情がこんなに気になることなんてなかった。
 好きだと言ってしまえたら、どんなに楽だろう。
 以前までの万里なら、紬の都合も気にせずに告げていたことだろう。
 ――――笑っててほしいんだよな。困るの目に見えてんのに、言えっかよ……。
 はあ、とため息を吐けば、それを耳にした紬がひょいと覗き込んでくる。
「万里くん? どうしたの……今日、なんだか元気がないよね」
 面食らって、万里は二度、三度目を瞬く。そうして、項垂れて頭を抱えた。
 ――――か……んべんしてくれ、紬さん。今それを、アンタが言うのかよ……!
 元気のない紬を元気づけたかったのに、逆に心配させてしまうなんて。
 本人はそれどころじゃないはずなのに、どうしてこの人は、と嘆きさえしたい気分だ。
 こちらのことを気にかける余裕があるのなら、せめて少し、ほんのかけらだけでもいいから、自分に自信を持ってほしい。なんなら万里の中にある無駄なほどの自信を抜き取っていってくれたっていいのに。
「万里くん……ごめん、今日、無理につきあわせちゃったのかな……」
 苛々するほど、紬には自信がない。
 生来そうなのに加えて、逃げ出したことが彼の中の自信を、覆い隠してしまっているのだろうか。
「大丈夫っすよ。つーかアンタが元気ねーからだよ。移った」
「えっ、あっ、ご、ごめ」
「謝るくれーなら、笑ってよ。俺それだけで元気出っから」
「そんな馬鹿な……あはは……」
 困ったように笑う紬を、万里は目を細めて見つめる。
 言ったことは本当だ。紬が笑ってくれれば、元気が出る。
 ただ、自分では笑わせてやれないことが悔しくて寂しい。きっと丞と仲直りできたら、紬は心の底から嬉しそうに笑うのだろう。
 そう思うと、苦しくて仕方がない。
 ――――俺じゃ無理、って気持ち、分かっちまうんだよな……。
 自分がリーダーではGOD座に勝てないと言う紬と、自分が相手では、紬を安心させてやれないと思う万里の、重なる消極的ライン。
 こんなところで同じ気分を分かち合いたくはなかったと、万里は息を吐いた。
「紬さん、出よう。そろそろ帰らねーと、まぁた左京さんに怒られちまう」
「あ、うんそうだね……明日も稽古頑張ろう、万里くん」
「そっすね」
 店を出て二人で歩くけれど、当然手なんか?げない。紬が落ち込んでいるのが分かるのに、元気づける言葉のひとつも出てこなかった。
 ――――今の俺じゃ、紬さんの力にはなれねーのかな。落ち込んでる時には励ましたり、……抱きしめたり、そういうの、駄目、……だろうな。
 もっと近づきたい。もっと大人になりたい。そうすれば、紬を包んであげられるのに。
 ――――しんどい。カフェ友のままじゃ、抱きしめることもできやしねー。
 万里は、隣をとぼとぼと歩く紬を横目で見やる。このままの距離じゃ、抱きしめることはおろか、?に触れることさえできやしない。
「紬さん……あのさ」
「ん?」
「アンタ、今、フリー?」
「……えーっと、フリーって? どういう……」
「あー、彼女いるかどうかってこと。いんの?」
「え、いないよ……そういう余裕、ないしね」
「好きなヤツも?」
 うん、と紬が頷く。なら、入り込む余地はあるのかなと、万里は思ってしまう。丞への感情が幼なじみへのもので間違いないのなら、支える相手は自分だっていいはずだ。
 万里は、足を止めた。
「だったら」
 こくりと唾を飲んで、思い切って音を吐く。
「万里くん?」
 気がついた紬が、数歩先で立ち止まって振り向いてくれた。
 どうかしたのかと心配そうなその顔を、満開の笑顔に変えるには、ただの仲間じゃ駄目なのだ。
 もっと近く、ずっと深く。
「俺、アンタのカレシに立候補してもいいっすか」
 らしくなく、心臓が早鐘を打つ。そういえば自分から想いを告げるのは初めてだったと、太腿の横で拳を強く握った。
 紬はどう反応を返してくるだろう。言ってしまった言葉はもう戻ってくれないし、これで終わってしまうかもしれない。
「万里くん……」
 紬は戸惑って眉を下げ、少し思案するように視線をそらし、どう言おうか迷って口許に指を当てる。
「ごめん、きみのこと……そういう風には見られない……」
 良い返事は期待していなかったけれど、ああ、と万里はゆっくりと息を吐いて口唇を引き結ぶ。
 ――――だよな。分かってたけど、つれぇ……。
 初めて味わう失恋というものが、こんなにもつらいものなんて。これでもう、紬と一緒にカフェに行くことはできなくなるだろうなと、息を止めた。
「あれ、万里くん? 台詞ない? のかな? 俺返し方下手だった、よね、ごめん……」
 のに。
 紬から不可解な言葉が吐かれる。万里は首を傾げた。
 ――――台詞? 台詞ってなに……返し方……、って、ああ!
 唐突に悟って、万里は思わずそこにしゃがみ込んだ。
「マジかよ……」
「ば、万里くん?」
 紬が不安そうな声で歩み寄ってくるが、脱力感が抜けずに振り仰いでやることもできない。
 紬は、先ほどの告白を、ストリートACTだと思って返してきたのだ。真面目な、本気の告白だとはかけらも思っていないということになる。
 ――――対象外だってのは分かってっけど、実際そういう対応されるとサガるわ……きっつ……。
 だが、考えようによってはそう悪いことでもない。
 万里のことを「そういう風には見られない」というのは、つまり芝居だったからだ。こちらが本気なのだと分かれば、違う答えが返ってくるかもしれない。
 最初は無理でも、徐々に気になる存在になるかもしれない。まずは意識してもらうことが、いちばん初めの難関だ。
「あーも~……! 逆に覚悟できたわ!」
「万里くん、どうしたの、大丈夫? さっきの、ごめ――」
「……っし、スイッチ入った。マジでいく」
 万里はひとつの深呼吸のあと、勢いを付けて体を起こす。至近距離にあった紬の顔に笑いかけ、再び歩き出した。
 わけの分からない紬は、その場で首を傾げたまま足を踏み出せないでいる。それに気がついた万里は、振り向いて笑った。
「何してんの紬さん、帰ろ。置いてくぜ」
「あ、う、うん……?」
 腑に落ちてないような顔をしながらも、紬はついてきてくれる。
 ふたりで並んで歩けるこの距離を、壊したくはないのも本音。紬にもっと近づきたいと思うのも本音。
 もう、紬を好きだというこの気持ちを押し込めていたくない。押し込められるほど、小さなものじゃなかった。
 せっかく好きになった紬の価値を、溜め込むことで下げたくない。
 ――――悩んでんなら、聞いてやりたい。支えられるんだったら、俺がしてやりたい。いつか……紬さんと板に立ちてぇな。
 自信がないというのなら、そんな紬をも好きになるヤツがいるんだと言ってやりたい。
 ――――押しに弱そうだもんな、紬さん。頼み込んだら、もしかしてってのも、あんだろ。
 この恋を叶えたい――それはもちろんあるのだけれど、紬に伝えたい。
 あなたを真剣に想っている人間がここにいますと。
 それで少しでも、紬が自分自身を好きになってくれたらいい。
 そう思って、万里はひとつ、心に決めた。
 限りなくゼロに近くても、可能性が少しでもあるのなら。


紬サイド




 そうして恐る恐る稽古室に戻り、朝練をこなして、朝食を取る。
 オムレツは紬の好物だけれど、昨日も臣が作ってくれた。美味しい、と感想を言えば、ありがとうと朝からさわやかに返されるのも、同じ。
「はよっす~、臣~なんか食いもん~」
 昨日と違うところはないのかと探す中、紬の体が強張った。ダイニングキッチンに響いた眠そうな声は、万里のものだ。
 顔を合わせづらい、と紬は万里とは違う方向に顔を向ける。
 何しろ、昨夜彼に恋を告白されたのだ。
 昨夜の今朝では、心の準備もできていないし、そもそも今はGOD座との勝負のことで頭がいっぱいで、その上今朝から不可解はことばかり起こっている。
 ――――ふ、普通にしてていいんだよね? 万里くんには、一度無理だって言ってるんだし。
「ほら万里。今日はいつもより早いな。土日は遅くまで寝てるだろ」
「あー、今日あれなんすよ。一成と天馬が珍しく空いてるってーから、遊びに行こうって」
 臣が、万里の分の朝食を用意してくれる。特に席が決まっているわけでもないここの食卓で、万里は紬の斜め前に座っていた。
 そこしか空いていないわけではないのに、そういえば昨日もそこにいたような、と思い起こして、あれ? と首を傾げた。今のやり取りも、やっぱり昨日聞いた気がすると。
 隣の丞をちらりと見やると、項垂れて額を押さえていた。きっと丞も今、紬と同じことを考えたのだろう。
 ――――やっぱり、同じなんだ……。
 万里にとっても、今日は昨日らしい。団員たちも、テレビも、今日は昨日。
 そろって自分たちを騙しているわりには、ひどく大がかりに思えて、紬は「みんなの中では明日」である今日を、どうにか噛み砕こうとしていた。
「あ、紬さん」
 その時、万里の声が紬を呼んで、思わず手元が狂う。取り落としたフォークは皿にぶつかって、ガチャガチャンと音を立てた。
「ど、どうしたんすか。平気?」
「だっ、大丈夫、平気だよ。なに?」
「そっちのドレッシング取ってほしいんすけど」
「え、あ、あ、うんこれね、ごめん気づかなくて」
 紬は傍にあったドレッシングの瓶を手に取り、万里に渡す。手が触れやしないかとどきどきしたが、無事に接触なく渡すことができた。
 ――――万里くんが昨日あんなこと言うから、意識しちゃうじゃない……。
「アンタときどき鈍くさいよな紬さん……」
 万里は、昨日の朝と変わらない態度だ。いつもの自信満々な表情に、どこか寂しげなものが混じっているのはどうしてだろう。
 そこまで思って、紬はハッとした。
 万里にとって昨日、紬にとっての一昨日は、万里とのストリートACTをした日だ。その時の告白をうっかり受け流してしまった日。
 万里はそのことを気にしているのだろうか、と大好きなオムレツを食む口の動きが鈍くなった。
 ――――その鈍くさい俺なんかのこと、どうして好きになったの、万里くんは……。
 いくら考えても分からない。答えにたどり着いてくれない。
 ――――違う違う、こんなこと考えてる場合じゃないんだよ俺は……万里くんには申し訳ないけど、自分のことでいっぱいいっぱいで、そんな、恋愛のこととか、考えられない……!
 二の次どころか、三の次、四の次だ。
「紬、あんまり考え込むなよ」
 隣の丞から、小さく声がかかる。それにハッとして顔を上げたら、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
 昨日と同じ現象が起きている事実を、あまり噛み砕けていないのだろう。
「あっ、う、うん、大丈夫……」
 ――――そうだよ、問題山積みじゃないか。万里くんのことは、後回しにさせてもらおう。

『いちばんはGOD座との勝負考えて。前向きな感じで。その次は紬さん、アンタ自身のことを。こっちも前向きな感じな。三番目はまぁ……丞さんのこと? また何かあったんだろ。仲直りできますよーに。そんでその次くらいでいいから、俺のこと。もちろん前向きな感じで頼むわ』

 昨夜万里に言われた言葉が、頭の中によみがえってくる。カアァッと?の熱が上がったのに気がついて、隠すように項垂れた。
 あんなに真剣な想いを、後回しにしていいものか。
 前向きな感じに考えられるとは思わないけれど、ちゃんと考えないと、と深呼吸。
 まずはこの昨日の今日から抜け出して、GOD座のことを断って、丞とはちゃんと話し合って、それから万里にごめんと言おう。
 順番が最後になってしまうのは、もう仕方がないと、ジャスミンティーを飲み干した。



 バイトに出掛けようと、玄関で靴を履く。教えている生徒に確認したら、やっぱり今日は昨日だった。今日が今日だと思い込んだままだったら、危うくバイトをすっぽかすことになっていただろう。
 なぜこんな現象が起きているのかは分からないが、明日はちゃんと明日になっているはずだ。
「紬さん」
 さあ出掛けようと思ったところへ、ほんの少し慌てた声に呼び止められる。振り向けば、万里の姿。無意識に、身構えてしまった。
「あ、な、なに? 万里くんも今日お出掛けでしょ?」
「あー、天馬待ち。つかアンタ、大丈夫か?」
 ぐ、と腕を掴まれて、紬は慌てる。
 昨日はこんなことなかった。
 普通にバイトに出掛けて、万里と玄関先で会話なんてしなかったのに。
 やはり、昨日とは少しずつ違っている。紬の反応に応じて、ほんとの昨日とはずれてきているのだろうか。
「え、えっと……どうして?」
「さっき、なんか様子がおかしかったから……体調でも悪いのかと思ってさ。バイト、休めねぇの?」
 紬は目を見開く。朝のダイニングでのことを、そんな風に捉えてしまったのかと。
 確かに傍から見ればおかしな様子だっただろう。怪訝そうな顔をしたり、項垂れたり、そわそわと周りを見渡してみたり。
 そんなに目立つ行動はしてなかったと思うが、万里の気持ちを考えると、そう不思議なことでもないのかもしれない。
 好きな相手なら、異変は見逃したくないはずだ。
「だ、大丈夫だよ。バイトだって休めないし……。今大事な時期だって、万里くんだって分かるでしょ?」
「俺別にベンキョーとかしないでもできるし。カテキョ頼むヤツの気が知れねー」
「……万里くん、そういうのは良くないよ。しなくてもできるのはいいけど、他人を否定するようなことを、しちゃダメだと思う。っていうか、カテキョ頼んでくれる子がいないと、俺の仕事なくなっちゃうじゃない……」
 困るよ、と苦笑すれば、珍しく表情の幼くなった万里が、ごめんと謝ってくる。
 ――――万里くんて、軽薄そうな外見に反して結構真面目だよね。なんていうか、育ちがいいんだろうな。
「紬さんのバイトに、文句言うつもりじゃなかったんすよ……。ただ、体調悪いなら無理しない方がいいって思って。今倒れたりしたら、困るじゃん、いろいろ……」
「あぁ、うん、そうだね……ごめんねありがとう、大丈夫だよ」
「……もしかして、昨日、帰りに俺が言ったこと気にして――るわけねーよな、ねーわ……悪い、今のナシ」
 万里の視線が泳ぐのは珍しい。
 言い掛けた言葉を途中で止めてまで、会話を切り替えるなんて、らしくないなと思ったが、そういえば紬は万里のことをよく知らない。
 通っている学校と、たまに学校をサボッて遊びに行っていたりすること、カフェ巡りはコーヒーの味重視、わりと何でもこなせてしまうらしいこと。それくらい。
 そして、月岡紬を好きだということ。
 自分で思って、赤面した。
 万里の言う昨日の帰りとは、紬がストリートACTと思ってしまった時のことだろう。
 少しは意識してくれたのかなんて、万里は期待しているようだった。
 だけど万里の中で昨日の紬は、ただ演技で返してしまった時点で止まっているはず。
 紬がもう「本気の告白」を聞いているとは、思っていない。
 そうしてハッと気がついた。
 紬にとっての昨日を繰り返しているということは、もしかして。
 ――――ちょっ……と待って? 俺、もう一回万里くんの告白聞くことになるの!?
 今さらそこに思い至る鈍感さに辟易もするが、それどころではない。
 あんな真剣な告白を二度もされるなんて、とんでもない。
 だが朝からのことを考えると、少しずつ違いはあるものの、大筋は「十二日」のことをたどっている。
 記憶が正しければ、バイトを二件こなして、カフェで少し休憩をして寮に戻り、夕食を済ませ稽古を終わらせてミーティング、また丞と衝突して、そうして……。
 紬は昨日のことを順に思い起こして、?を染めた。
 丞と衝突してまた自信をなくした直後、目の前にいる年下の男の子に恋を告白されるのだ。
「なあ紬さん、本当に大丈夫なのかよ? なんか顔赤くねぇ? 熱とかあんじゃねーの」
「だっ、大丈夫! お、遅れちゃうからもう行くね」
 額に手を伸ばそうとしてきた万里を振り切るように、紬は慌てて玄関のドアを開けた。
 まだ心配そうな顔の万里がいたけれど、それ以上の接触を避けて足早に駅の方面へと歩く。
「びっくりした……万里くんてば目聡いんだから……」
 まだ?が熱い。あそこまではっきりと、ストレートに想いを告げられたのは初めてだ。
 つきあっていた彼女もいるけれど、なんとなくいいなと思って、相手の方もなんとなくいいなと思っていてくれたのか、なりゆきみたいにつきあいだして、それなりに恋人っぽいこともしてきた。
 けれど、相手に真剣に想いを告げたことはあっただろうか?
 ――――ないな……。好きでなきゃ、つきあったりはできないけど、彼女のどこが、と聞かれると具体的に出てこない……月並みなことしか……。
 芝居を離れていた頃に、交際をしていた女性を思い出してみたけれど、紬は落ち込んできてしまった。ふがいない恋人だっただろうなと。
 スマートなエスコートのひとつもできなかったし、忙しさにかまけて、お互い逢えない時期もあった。彼女にフォローをしたか、彼女にフォローをしてもらったかというと、なかった気がする。
 ――――客観的に考えて、最低だよね俺……。万里くんはやっぱり、俺を買いかぶってる気がする……。
 こんな自分、好きになってもらう価値なんてない。
 芝居もうまくいかないし、幼馴染みともぎくしゃくしている。
 足早だった歩調が、紬の気分に合わせて遅くなっていく。ここ数日の陰鬱な気分が、さらに最低レベルにまで落ち込んでしまった。
 こんな気分のままじゃ、何を考えてもまとまらないなと、紬はせめて顔を上げて、ゆっくりと足を踏み出した。



 昨日と同じくバイトを終えて、カフェで休憩して、寮に戻った。昨日飲んだブレンドとはオーダーを変えてみたけど、今日はやっぱり昨日である。
 夕食はチキンカレー、ポテトサラダとオニオンスープ。ナンがうまく焼けたんだと、嬉しそうに笑う臣も変わっていない。そろそろ彼が本当に普通の大学生なのか分からなくなってきたが、そこは今考えるべきところではない。
 今ここにいるメンツも、昨日と変わっていない。
 冬組の全員と、学生組、デザイナーコンビ、機嫌が悪そうなヤクザ。少し十座の元気がないのも、昨日と同じだった。
「なー咲也、春組って今日レッスン室使うか?」
「あ、今日は使わないよ天馬くん。っていうか……稽古しようにもメンバーが揃わなくて。至さんは会社の飲み会でいないし、綴くんは脚本の研究だとかで、どこかの図書館こもってるみたいだし……」
「じゃあウチで使っていいか? っていうかお前も入れよ咲也。真澄は、……監督いないとやる気ないか……」
「あはは、監督は冬組の方いっちゃうから、仕方ないよね。でも、いいのかな? 俺が入っても。シトロンさんにも声かけていい?」
「当たり前だろ」
「わあ、一緒に稽古できるの嬉しいです!」
「ポンコツ役者のポンコツっぷりが、バレちゃうんじゃないの、平気?」
「んだとぉっ」
 夏組と春組の一部が、第二レッスン室を一緒に使う相談をしているのも、紬は昨日聞いた。少し羨ましく感じてしまうのは、わだかまりが何もなさそうな彼らがまぶしいからだろう。
「じゃあ、冬組はこのあと稽古ですね」
「はい、監督」
 紬は食べ終わった食器をキッチンへと運び、いつもごめんねありがとう、と臣に声をかけて、ひとり第一レッスン室へと向かった。
 レッスン室は、まだ誰もいない。電気をつけて、正面の鏡に自分自身を映してみた。
 頼りない男がひとり、いるだけ。
 きっと誰が見ても、十人中十人が、お前になんか任せられないと言うだろう。
 自分なんかがリーダーをやるべきじゃなかった。
 こつ、と鏡に額をぶつける。
「身の程を知れよ、月岡紬……」
 もう一度芝居がしたい。その一心でこの街に戻ってきたのは間違いだった。この街にはそんな人間が山ほどいる。
 ちょっと演技ができるからって浮かれていた自分が、ここでスターになれるわけもない。
 いや、そもそもスターになりたかったわけではない。それは丞みたいな人間がなるべきだと理解している。
 ――――スターになりたいわけじゃない。芝居がしたいんだ……誰かひとりでも、俺の芝居を好きだと言ってくれたら、それで……。
 そう思って息を飲み込み、紬はふるふると首を振り、自嘲気味に口の端を上げた。
 ――――ひとりでも、なんて?だ……たくさんのひとに観てもらいたい、幕が下りたあとのあの拍手、もう一度浴びたい。楽しく芝居がしたいんだ……丞と一緒に、芝居がしたい。
 こんな欲張りな自分を、いったい誰が知っているだろう。丞も、きっと万里も知らないはずだ。
 ――――こんな自分は好きじゃない。こんなの、誰も好きになってくれないよね……欲しがるだけで、何もしない、自分勝手だ……。
 せめて自分が打ち込めるものが他にあれば、と息を吐く。
 考えても、探しても、芝居しか浮かんでこない。
 ――――逃げたくはないけど、ここを壊したくない。どうやって分かってもらおう。こんな自分が主演じゃ、GOD座が出してくるだろう課題を、うまく表現できない……。
 丞が主演を受けてくれないのなら、GOD座との勝負は下りるべきだという気持ちは、昨日と変わっていない。
 もう一度丞と話し合ってみようと思ったところへ、他のメンバーと監督が、そろってレッスン室へとやってくる。夜の稽古開始だ。
「じゃあ、いつも通り発声練習と、エチュードをやってみましょう」
「はい、よろしくお願いします」
 紬は作った笑顔で自分を飾って覆い、ひとまずの稽古をこなしていく。
 だけど、エチュードのぎこちなさは、いつもの比ではなかった。いづみが困り果てているのが、雰囲気でも分かって、余計に仕草が硬くなった。
 レッスン室のドアが軽くノックされる。顔を出したのは、万里だった。
「あれ万里くん、どうしたの? 今日は秋組の稽古ないよね」
「んー、ちょっと他の組の稽古も見たくて。秋組の参考になっかなーと思ってさ」
「熱心だね、偉い。隅っこの方で見ててくれる? 何かアドバイスあったらお願い」
「りょーかい」
 そう言って万里は、壁にもたれてこちらを観てくる。それも昨日と変わらないが、やりづらさは増していた。
 万里の気持ちを知ってしまったからか、視線のひとつひとつが、意味を持っているように思えて仕方がない。
 エチュードの会話が続かない。
 丞と紬以外は、演劇に関しては素人だ。記憶のない密は分からないが、こんな時は紬や丞が引っ張っていくべきなのに、その二人の息がいちばん合っていないのでは、どうしようもない。
 飲み会という簡単なテーマであるにもかかわらず、紬の仕草も表情も、硬い。
 こんなんじゃダメだと思えば思うほど、深みにはまっていった。
 その時。
『悪い悪い、遅れちまって』
 紬の頭の中に、なかった声が入り込んでくる。それは飛び入り参加の万里のものだった。
 驚く東と誉、瞬きの回数が多くなった密。やっぱりかという表情の丞。そういえばそうだった、と昨日のことをやっと思い出した紬。
 すうっと、力が抜けていったような気がする。
 もともとなのか、発声練習の賜物なのか、万里の声はレッスン室によく響く。仕事帰りの青年を、よく演じていた。
 紬はひとつ、瞬き。万里の視線と出逢って、そこでカチリとスイッチが入ったのを自覚した。
『遅い。何してたんだよ?』
 すっと息を吸い込んで、万里に向かって言ってみる。普段の紬では言わないことだ。
『だから謝ってんじゃん、帰り際に仕事頼まれたの、断れなかったんだ』
 万里も役に入り込んだのが分かる。どうも、頼まれることに弱い青年を選んだらしい。普段の万里なら、嫌なものはすぐに断るだろうに。
『まぁまぁ、楽しみにしてたからってそう怒らないの。ねえ、何を頼む?』
『あ、とりあえずナマで。そういや表に救急車止まってたけど、なに、急性アル中でも出た?』
『この店じゃないみたいだけどな。あ、すいません鶏の唐揚げ追加で』
 東の笑い声にオーダーをする万里と、メニューを指して店員に頼む丞。
『だし巻きたまごも。え、ふたつ? ああきみはひとつ全部食べるだろうしね。はいはい』
 誉は紬の好物を知っていてか、世話焼きの友人を演じ、
『ねぇ今日のアイスなに』
『もうデザートの話かよ!』
『オレには最重要事項だ』
 宴が始まったばかりなのに、もうデザートの話をする密に突っ込む万里。
 先ほどまでの緊張感が?のように、会話が弾む。万里ひとり入れた……というか乱入されただけで、こんなにも違ってしまうのか。
 全員の飲み物がそろったところで、何度目かの乾杯を行った。
 勢いを付けすぎて、ジョッキから泡が零れる。それに慌てる仕草をつけ加えて、紬は両手で持ったジョッキを、口許へと運んでいった。
 そうして飲み会特有の騒がしさと、友人で集まれた喜び、酒の酩酊をそれぞれで表現し終わった頃、いづみの声でエチュードの終了が告げられた。
 ――――あっ、もう終わっちゃったのか……。
 昨日と同じ内容だと分かっているのに、紬は久し振りに役に入り込むことができた。
 万里が乱入してきただけでだ。
 ――――万里くんは……やっぱりすごいな……。冬組と合わせるの、初めてなのにね……。
 万里が羨ましい。なんのわだかまりもなく入り込んできて、場の空気を一瞬にして攫ってしまう。
 顔が整っていることもあるし、よく通る声、物怖じしない大胆さ、自分がどう見られているかよく理解している、頭の回転の速さ。
 ――――これからの公演で、どんどん上手くなっていくんだろうし……あの華やかさは、俺にはないもんね。丞と万里くんが舞台に立ったら、さぞ映えるだろうなあ……。
 華がない、というのは自覚している。言われたこともある。役者として、それを補う演技力でもあればいいのだが、それもない。
「紬さんの演技、憧れる。俺にはできねーもんな」
 万里がそう言ってくれるけれど、心の底から受け入れることができないでいる。
「うん……ありがとう万里くん」
 きっと万里の言葉は、恋心が多めに入っているはずだ。お世辞のカテゴリに分類されたっておかしくない。そんな風にしか思えない自分も、紬は大嫌いだった。
「じゃあ、冬組はこのあとミーティングで」
「はい……」
 万里が気を遣ってレッスン室から姿を消し、昨日と同じようにミーティングが始まる。
 議題はもちろん、GOD座とのタイマンACTだ。
「密さん、大事な話だから起きて」
「ワタシが定期的にマシュマロを供給するよ」
「勝負を受けるかどうかを決めるのは、明日だよね」
「どうするんだい?」
 東たちの視線を受けて、紬は目を伏せる。そうしてゆっくりと口を開いた。
「……劇団の借金返済のためには、勝負を受けるのもいいと思います。ただ、俺なんかがリーダーで主演じゃ、やっぱり無理だと……俺じゃなくて、丞なら」
 ――――やっぱり、俺の気持ちは昨日と変わらない……。こんなところも、昨日と同じ、か。
「紬、お前な――! 一度負った責任を投げ出すのかよ! 逃げないためにリーダーになったんじゃなかったのか!」
「なったときは確かにそう思ってたよ! でも、俺には役者としての才能が……」
「でもじゃない、お前いつまで引きずってんだ!」
 言葉に詰まる。何も言い返すことができなくて、紬は口唇を引き結んだ。
「落ち着いてください、丞さん!」
「ケンカは無意味だ、やめたまえ」
「まあ、紬の気持ちも分かるよ……責任が重すぎる」
「甘やかすな。そうやってまた役者の道も投げ出すんだろう。俺はそんな無責任なヤツと一緒の舞台には、立ちたくない」
「丞――!」
 丞はそう言い放って、レッスン室を出ていってしまう。残された五人の間に、気まずい空気が流れた。
 ――――丞の気持ちも、昨日と変わってないってことか……。
「話し合いは、また改めた方がよさそうだね」
「……すみません」
「ごめんなさい、紬さん。入団したばかりなのに、いろいろ背負わせすぎちゃってました。タイマンACTは、辞退しましょう」
「ボクもその方がいいと思う。力になれなくてごめんね」
「紬くん、気持ちを切り替えるのだ、新しい金策なら、ワタシが考えてみせよう」
「マシュマロ、食べる……?」
 メンバーの気遣いが、逆に心臓に突き刺さる。きっと心の底から気遣ってくれているのだろうに、素直に受け止めることができない。
「……すみません、でも、俺に覚悟がないのがいけないんです」
 紬は俯いて、そのまま逃げるようにレッスン室を後にした。




 ――――覚悟って、どうやったらできるんだろう。やだな……どうしてこうなっちゃうんだろう。昨日と同じことを繰り返して、自分の不甲斐なさを自覚しただけだ……。丞と一緒にお芝居したかただけなのに……。
 ふらふらとした足取りでやってきたのは、寮の中庭だ。ここに来ようと思っていたわけではないのに、緑の多いここは、少しだけ紬の心を落ち着けてくれる。
「紬さん」
 夜空を見上げた時、声がかかった。そちらを振り向いてから、紬は失敗したと思った。どうして中庭に来てしまったのだろうと。
「ば、万里くん……」
 昨日のことを繰り返しているのなら、万里が来ることも予測できたのに。
「ダイジョブっすか?」
「……監督から、聞いたの?」
「ああ、勝負は辞退するって。……なんで? もったいねぇ。さっきのエチュード、俺なんかまずかった?」
「ううん、万里くんとのエチュード、楽しかったよ。だけど……今、みんなと……丞と、さっきみたいな演技ができるとは思えない。勝負受けたって、負けるのが目に見えてるじゃない。ここをなくしたくないんだ。そのためなら、俺は逃げるよ」
 万里だって、ここがなくなったら困ると言っていた。
 勝負に負けたら、カンパニーはなくなってしまう。居場所がなくなるのだ。
「変わってるよな、紬さん。普通そんな怖い顔して逃げるなんて、言わねーもんだぜ」
「……逃げることを正当化するつもりはないけど、でも俺は」
「なあ紬さん、本当は逃げたくなんてねぇんだろ?」
 万里の言葉に、紬は目を瞠る。
 逃げたいわけではない。それは、誰だって同じことではないだろうか。
「逃げたいって思ってるヤツが、んな睨んでくるかよ。大方、俺は逃げたことなんてないくせにって思ってんでしょ」
「えっ、睨んでた……? ごめん、そんなつもりじゃ」
「逃げることも必要っていうアンタの理屈は、理解できる。でも俺今さ、逃げたくねーって思ってることがあんだよね」
 確かに、万里に対しての評価は高い。
 ずるいな、と思っているのも本当で、劣等感さえ感じる瞬間があった。それが、ここにきて表に出てしまったのだろうか。
 昨日とは違う感情を見つけてしまって、紬は慌てる。そして万里の受け答えも、紬の言動に合わせて変わってきている。
「に、逃げたくないことって……?」
「馬鹿みてーな恋から。……紬さん、昨日言ったこと、演技じゃねーんだ。俺はアンタのカレシになりたい。好きだ、紬さん」
 言葉は変わっていても、そこから導き出される結論は、変わっていない。
 紬は口を覆い、どう受け止めるべきなのか迷い視線を泳がせる。
「……驚かねーのな?」
「お、驚いてる、けど……万里くんは、俺を買いかぶってるから……」
「なに、それ」
「俺はきみが思ってるような人間じゃないよ。弱いし、やなことだって考えるし、俺のこと混乱させるきみが憎たらしいとか思うし」
「えっなにそれ超嬉しいんだけど」
「なんで!?」
 万里の恋心は、昨日聞いているからか、驚きという感情は少ない。
 その分、どうして自分を、という疑問の方が多くなってしまった。さらに万里のこの言葉。今の自分の発言のどこに、嬉しがるような要素があったのだろう?
「混乱するってのは、ちゃんと真面目に捉えてくれてんだろ? まーた昨日みたいに流されっかと思ってたわ」
「き、昨日のは……ごめん、謝るよ……さすがに、演技じゃないとは思わなかったんだ」
「まあ、急だったしな。でも、紬さんのそういう律儀なとこ、好きっすよ。ほんとに……好きなんだ、紬さん。演技も、アンタ自身も」
「きみは俺のことを知らないから。絶対にいつか幻滅するよ。いったいどうして、俺のどこを見て、好きになっちゃったの、万里くんは」
 仕方ないなと呆れるように、紬は万里の心の奥底を覗こうとする。
 視線の動き、呼吸の仕方、指先の戸惑い、そんな小さな仕草でも、相手の言っていることが本当かどうかは、分かるつもりだ。
「さあ。分かんね」
「えっ?」
 紬は驚いた。
 万里のことだから、きっとそれらしい明確な言葉が返ってくると思っていたのに、分からないとは。しかも、それをあまり重要視していないらしいのだ。
「だーって気づいたらそうだったし。理由なんか多分一杯あるけど、どれも後付けっつーかなんつーか。笑ってるとこ見たいとか、カフェ一緒に行くの楽しみとか、そういうのばっかなんだぜ」
「そ、そういうものなの……」
「それでもよけりゃ、夜通し説明すっけど。でも……理屈じゃねぇっての、こっち方面じゃ初めて味わってるよ、紬さん。サンキュな」
 そう言って万里は照れ笑い。礼を言われるなんて思っていなかった分、反応が遅れた。そうして、一気にせり上がってくる、気恥ずかしさ。
「……っ」
「だからさ、生理的に無理っていうんじゃなきゃ、ちょっと真面目に考えてみてくんねぇ? 思ったよりいい反応もらえてっし」
「なっ、こ、これは万里くんが変なこと言うからっ……」
「変じゃねーだろ、アンタが好きってだけだぜ? だからもっといろんな紬さんが見たい。俺が思ってるのと違うっていうなら、見せてよ、紬さん。普段のも、舞台の上のも。もっと、見たい。GOD座のタイマン受けてみるといいよ。どんなテーマ来たって、綴がすっげぇいい脚本仕上げてくっから」
「だ、だからね万里くん、聞いてよ」
 言うだけ言って、すっきりしたとでも言うように、万里は笑う。どんなにいい脚本が上がってきたって、それを演じる役者の方に問題があるのだというのに。
「弱音ならいつでも聞くし、練習相手にだってなるし、緊張ほぐれないってんなら、いつでもぎゅーってしてやっからさ」
「……さ、最後のは何か違うよね?」
「バレた。はは、まあ俺でよけりゃいつでも力になるぜ。好いた惚れたを抜いてもな、アンタの演技をもっと見たい。叶えてくれよ、紬さん」
「万里くんっ……ちょっ……」
 じゃあおやすみ、と万里は本当に無責任に、言いたいことだけ言って、寮の中に戻っていってしまう。
 紬は昨日と同じくそこにしゃがみ込んで、火照る?を両手で覆った。
「ど、どうしよう……」
 恋を受け入れられないと思うのは、昨日と同じだけれども、あんな風に言われて嬉しくないわけがない。
 自分の演技では無理だと思っているこの状態で、「見たい」と言ってもらえるのは、本当に嬉しい。
 演じ終えたあとで感想をもらえる幸福を知っているけれど、演じる前に「もっと見たい」と期待されるのは、あまりなかったように思う。
 好いた惚れたを抜いても、と万里は言った。
 お世辞のカテゴリーに分類されるだろう、なんて思っていた自分が情けなくて恥ずかしくて、別の意味でも顔から火が噴き出そうだった。
 ――――本当は、逃げたくない……なんで万里くんには、分かっちゃうんだろう……。
 深く息を吸い込み、そして吐き出す。
 先ほどまでの重く暗い気持ちが、少しずつ、本当に少しずつ、空気に溶けていくようだった。
 今日は昨日の今日よりも、ゆっくり眠ることができるだろう。そう思って、紬も寮の中へと戻っていった。



2017/07/17
【装丁】A5表紙FC/136P/1100円/R18
【表紙】ももこ様
【あらすじ】発行済みのAre you ready?の前のストーリーとなります。
※作中に十座→左京の表現がありますので、苦手な方はご注意ください

人生イージーモードだった万里の中に、入り込んできてしまった紬。恋を自覚するまで、自覚してから、紬に大切な言葉を継げる万里サイド。
メインストーリーの無間地獄と冬組公演を絡めた紬サイド、千秋楽後の、何度目かの万里の告白に、紬が返した言葉とは――。
  
designed