華家



たった一度のI love you


「茅ヶ崎」
 千景の声が、いつもより大分低い。太腿の上で握った拳に、じんわりと汗がにじんだ。
「万里に、どこまで話したんだ」
「え?」
「昨日、あの後。何も訊かれないってことはないだろう」
「素直に言いましたよ。……先輩とはセフレなだけってこと」
 素直に言った、と口にした瞬間、千景を取り巻く空気がピリッと張り詰めたような気がした。彼が気にしていたのはその部分だったのかと、ようやく気がついた。
「だって俺の妄想なんか話しても仕方ないでしょ。アイツはそういう遊び、付き合っちゃくれませんからね。どっちかって言うと、紬の方が中二エチュードしてくれますよ」
 至が、千景の真実を話すと思ったのだろうか。まだ欠片ほどしか知らないだろう、千景の真実を。
(そんなもったいないことできるかっての……)
 千景の秘密をほんの少しでも知っているという事実は、至に優越感に似たものを味わわせてくれる。
 ひどく個人的な秘密を暴かれることの胸くその悪さと、その後に起こる空虚さを知っているから、誰かに千景のことを話そうとは思わなかった。
「お前が頭のいい人間で助かったよ、茅ヶ崎。そうじゃなきゃ、お前を消さなきゃいけないところだった」
 ステアリングから外れた千景の手が、至の喉元に伸びてくる。〝消す〟というのは、社会的にという意味でなく、物理的にということだろう。冷えた指先が、襟をやり過ごして素肌に触れてきた。
 だけど至は、身をよじることもせず、目を逸らすこともなく、じっと千景を見つめた。
 千景がそんなことをするはずがないという思いでなく、まっすぐに見つめてくる千景から、視線を逸らすのがもったいなかっただけだ。
 千景の意識すべてが、今この瞬間、自分だけに向かっている。それだけが幸福だった。
「……冗談だ。少しくらい怖がれ」
「先輩の思い通りになるとか、癪なんで」
「だろうな。安心しろ、お前に何かしたら、密が黙っていない。面倒なことになるのはごめんだ」
 千景はそう言って、運転席に深く腰をかけ直す。
 密が至を気にかけてくれているのは知っているが、千景の口から密の名が出るたびに、胃が重くなり心臓がざわつくのは、馬鹿げた嫉妬だ。
「密が黙っていないから、……ですか。じゃあ先輩個人としては、俺を消したい?」
「そうなっても仕方ないことがあればな」
 千景の目がすっと細められる。
 密をねじ伏せてでも、必要ならば千景は平気で喉を絞めてくるのだろう。まだそのラインには踏み込んでいないということか。
 至は「言いませんよ」と口を開きかけたけれど、
「口止め料、何がいい?」
 そうする前に千景の声に遮られた。
 至は目を瞠る。
 取り引きをする際に、対価が必要なのは分かっている。仕事でもゲームでもそうだ。何かと交換、というのは、理解ができる。
 だけど、分かってはいても、ショックだった。対価を払わねばならない相手だと思われていることが。
 千景へ向かっていく恋心を知らないのだから、当たり前だ、仕方ない。
 そう思う気持ちと、そんな人間に見られていたのかという沈んでいく気持ちが、至の中でごちゃ混ぜになる。
「欲しい……もの」
「何でもいいぞ? 発売前のゲームデータとか、テストプレイの権利とか。そういうの好きだろ」
 至はドアに肘をかけ、目元を覆った。ぎり、と歯を食いしばりたくなる。
 千景の中で、茅ヶ崎至という人間は、そういうものを欲しがるように見えるらしい。いや、あれだけ廃人レベルのゲーマー姿を見せていれば、それも仕方ない気がする。
「いりませんよ、そんなもの……」
 それでも、もう少しくらい分かってほしいと思う。腹の底から絞り出すような声を上げて、千景を責めた。
(ふざけんな、殺すぞ鈍感。なんでこんな人なの。なんでこの人なんだよ……!)
 こんなに想っているのに、少しも気づいてくれない。
 気づかれてしまっても困るのに、わがままな思いだけが体を巡った。
「俺たち、お互いのこと本当に何も知らないんですね、先輩。あんなにセックスしてるのに、先輩は俺の欲しいものなんか分からないし、俺も、先輩が何を望んでいるのか分かりません」
「俺が望んでいるもの? これ以上踏み込んでくるなってだけだ。分かりやすいだろう。だから、対価を言えと言ってるんだよ」
「未発売のゲームもテストプレイの権利もいりません。正規に手に入れたものならまだしも、絶対違うでしょう」
 例えば未発売のゲームをできたとしても、誰にも話せない。ネット上でも盛り上がって楽しめない。そんなもの、欠片も欲しくない。
(ほらな万里。両想いだなんて、お前の勘違いだよ。好きな相手が、そんなもの欲しがってるとか思わないだろう、普通……)
 分かっていたことだけれども、こうして実感させられると、胸が痛い。
 少しでも想う心があるのなら、そんな不正を提示してくるはずがないのだから。
(なんで、こんなに近くにいるのに……!)
 胃の中が焼けただれそうに熱くて、痛い。体の中から引きずり出して、這い回る黒い気持ちを全部、洗い流してしまいたかった。
「昨日のカクテル……」
 だけどそんなことは物理的にできない。何度か深呼吸をして、膝の上で手を組み、視線を泳がせる。
 その視線の先で、どうしてか、千景の指先がビクリと固まったように見えた。
「あれの意味、〝最後〟ってことなら、取り消してください」
「……え……?」
「取り消して、ください。最後になんかできない」
 昨日、千景と?がった。
 今まででいちばん優しい行為だった気がするけれど、だからこそ、最後になんかできない。してほしくない。
「俺が、欲しい、のは……」
 至はゆっくりと腕を上げて、人差し指で千景の唇に触れる。
(俺が欲しいもの)
 ほんの一瞬、千景が目を瞠った。
 言えなかった。言うつもりもなかった。
「キス……、と、セックス」
 でも――言ってしまえばよかったとも思う。卯木千景が欲しいのだと。
「……先輩、抱いてください」
 思えば、明確に口にしたのはこれが初めてだった。
 いつも、いつでも、ろくに大事な言葉もかわさず?がってきた。今さら千景に求めるのは、卑怯だ。
 心がもらえないのは知っている。だからせめて、千景に教えられた快楽を、まだ終わらせないでほしい。それは至の、本音だった。
「茅ヶ崎」
「先輩のせいで、これハマっちゃったんですから、責任取ってくださいよ」
 冗談めかしてそう呟けば、千景の指先が、至のしたように唇に触れてくる。
 息を吐く暇もなく重ねられて、至は目を閉じた。触れるだけの唇を煽るように吸えば、仕返しのように吸われて、舐められて、唇の形を確かめるように食(は)まれる。
「は……ぁ、ふっ」
「んん……う」
 もっと深く千景が欲しくて肩に腕を回せば、その手のひらはジャケットの隙間から忍んでくる。シャツ越しに胸を撫でられるだけでも、簡単に熱が上がって、羞恥が這い上がってきた。
「んっ……んぅ」
「は、はぁ、ん……」
 それでも唇が離れきる瞬間などなくて、吸い合う濡れた音が、車内に響く。触れ合う衣擦れの音が混ざる。
「んッ……!」
 腕を回されて抱き込まれ、至はびくりと肩を揺らす。まるで初めて触れ合うような錯覚に陥り、体が強張った。
 まさかこんなところで、という思いと、そんなものかなぐり捨てて触れ合いたい思いが交錯する。ドキンドキンと高鳴る心音を千景に悟られてしまう――と押しやるのに、千景はさらに手のひらを押しつけてくる。
 こんなに狭い空間で密着していれば、心音なんてとっくに悟られているだろうし、気づかない男ではないと分かっていて、無駄なあがきをした。
「はあっ、せん、ぱ……待って、ここじゃ」
「……っ分かってる、お前が煽るからだろ、馬鹿」
「俺だけの、せいに、しないで、くださいっ」
 吐息と一緒に抗議をすれば、ようやく千景の唇が離れていく。彼の呼吸もひどく荒れていて、それさえ刺激に?がってしまった。
 どちらが先に欲情したのか、もう分からない。
 正直、もっと車の通りがなくて、人が来ないような場所だったら、このままここで?がってしまっていたかもしれない。
 千景は体を離し、エンジンをかけ直す。
 至はそんな千景の横顔を見て、はしたなくも欲情した。昨日あんなに濃密に体を?げたのに、まだ足りない。少しも満足できない。
 そう思うのは、心が?がっていないからだろうか。
(でも、もし……万が一、先輩と恋人みたいなものになっても、先輩を欲しがるのは変わらないんだろうな)
 そんなことは起こり得ないのだろうけど、と思うが、夢を見てしまう。
 こんなに近くにいるから、もしかしたらと期待をしてしまう。
 ゲームの中のレアカードよりも、遥かに現実的なのに、恋愛イベントに発展する確率は低い。だからこそ、逃したくない。
 至はステアリングに乗った千景の左手にそっと触れる。そうしてその手を持ち上げて、コンソールの上で指を絡めた。
「……茅ヶ崎?」
「先輩、こうしとかないとすぐどっか行っちゃうでしょ」
「……なんだそれ」
「片手じゃ運転できないなんて、言わないでくださいね」
「平気だけど、危なくなったら振り払うからな」
「……分かってますよ」
 たぶん、運転のことではないのだろうなと思い、痛む心臓をごまかすように外の景色に視線を移す。
 コンソールの上で千景の手をきゅっと握ったら、向こうからも同じだけの力で握り返されて、心臓が飛び出そうなほど驚いた。



2018/08/19
【装丁】A5表紙FC/80P/800円/R18
【書店】とらのあな様
【あらすじ】
シリーズ3冊目。一応完結しました。
両想いなのではと万里に指摘された至だが、そんなはずはないと否定。それまで通り体だけの関係を続ける二人。 二人に転機が訪れたのは、ザフラでの海外公演だった――。8幕を絡めたストーリーです。
  
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