華家



踏み出す一歩


 一歩進むごとに、先が見えなくなるようだった。
 足を踏み出す先が分からなくなっているのに、後ろは真っ暗闇で、戻ることもできやしない。ここからどこに行けばいいのか、そもそも足を踏み出す権利なんてあるのか。
 たくさんのひとを傷つけてきた。これからもそうしなければいけないことが、たくさん待っているだろう。

 大切なひとさえ傷つけた。信じきれずに、彼らを裏切って、取り返しのつかないことになるところだった。
 そんな自分が、恋なんてして良かったのか。いや、良いわけがない。許されるはずがない。たくさんのひとから奪ってしまった幸福を、自分が手に入れていいはずがないのだ。

 茅ヶ崎至――裏表の激しい、会社の後輩。彼に惹かれていると自覚してから、この闇はより深くなった気がする。それは、牽制だったのだろう。これ以上深く関わるな、踏み込むな、踏み込ませるな、つみびとのくせに――と。
 それはそうだ。茅ヶ崎を巻き込むわけにはいかない。危険なんだ、本当に。命にさえ関わる。守りぬく自信なんてない、なくしたくない、怖い。
 この気持ちは墓場まで持っていく、絶対にだ。告げることはしない、誰に知られても、茅ヶ崎にだけは知られたくない。

「一緒に落ちてあげましょうか」

 そう思っていたのに、どうして今、目の前に茅ヶ崎がいるんだろう。
 真っ暗闇で何も見えないはずなのに、なんで茅ヶ崎だけがこんなに綺麗に見えるんだろう。
 あの明るい髪色を考慮しても、この暗闇の中では至近距離でないと見えないだろうに。

「ああ、でも、落ちたら痛いのかな。痛いのは、やですね」

 言って、茅ヶ崎はこちらに手を伸ばしてくる。口許に笑みさえ浮かべてだ。
 どうして。この闇が恐ろしくはないのか。この背にある、たくさんのひとの恨みの声が聞こえないのか。

「こっち、来てくれません? 先輩。惚れた相手を、いつまでもこんなところにいさせるつもりですか」

 どうして、言わないと決めていた想いを知られているのだろう。茅ヶ崎にだけは、知られまいとしていたはずなのに。
 言ってしまったのか? 覚えていない。思い出せない。言ったのだとしたら、生涯に一度の、大切な言葉だったはずなのに。

「どうして……茅ヶ崎。俺のこと、分かるんだろう。普通の世界には生きてない」
「でしょうね」
「なんでこの暗闇の中で、俺が見えるんだ?」

 茅ヶ崎が見える理由は分かる。茅ヶ崎しか見てないからだ。だけど、茅ヶ崎に見える理由が分からない。まっすぐ手を差し出せる理由が分からない。
 そんなふうに考え事ばかりしていたら、茅ヶ崎が真っ暗闇の中足を踏み出して、三歩ほどでこちらに向かってきたのに気がつかなかった。
 危ない、なんて思ったときには、手を取られてぐいと引き寄せられていた。

「俺が、あなたしか見てないからですよ」

 そんな言葉が、ふたり一緒に落ちる闇に消えていった。





「先輩、先輩ってば」
 体が揺さぶられて、ハッと目を開けた。
「先輩、大丈夫ですか? なんかうなされてましたけど。っていうか、先輩がこんなとこでうたた寝すんの珍しい……」
「うたた寝……?」
 きょろ、と見回すと、そこは見慣れた103号室だった。ソファの上で、座ったまま眠ってしまっていたらしい。
 疲れていたのか、と息を吐いた。あまりにも非現実的な世界での、〝リアル〟。
 あれは、あの闇は、現実だ。背負う闇に茅ヶ崎を巻き込むなという、自分自身からの牽制に違いない。
 今も心配そうに見つめてくれる彼を、あんな真っ暗闇に落とすわけにはいかない。
 力強く引き寄せてくれた、それだけでいい。夢でいいんだ。叶わない想いでも、このまま墓場まで持っていける。

「先輩……俺、力にはなれないんですか」
「え?」
「先輩が何か背負ってるの、知らないとでも思ってました?」
 愕然とした。なぜ茅ヶ崎は気づいてしまうんだろう。自分の未熟さが、彼を巻き込んでしまう。それだけは避けたいと、無理に笑ってみせた。
 はずだった。

「俺、この手を握ってるくらいできますよ」

 そっと手を握られる。指を絡め、まるで恋人同士のように。あの闇の中でしてくれたように、まっすぐに見つめてくれる。

 はらり。

 何かが、こぼれてきた。
 目から、何かが落ちてくる。

 はら、はら、はたり。

 それが涙だと気がついたときには、止まらなくなっていた。
「先輩が泣くとこ、初めて見ました。惚れたひとの泣き顔って、結構そそるな」
「……お、れ、だって、こんな、泣くなんて、したこと、な……っ」
「そうなんですか? 先輩のヴァージンもらっちゃった」
 そう言って笑い、茅ヶ崎は唇を重ねてきてくれる。いったいどういう現象なんだと考えるより先に、茅ヶ崎を抱き寄せていた。

「……そばに、いてほしい……」

 守り抜けるか、そもそも巻き込まないでいられるか。そんなリスク回避をシミュレートする前に、茅ヶ崎の肩に初めての涙を落とす。
「好きだ、茅ヶ崎」
「……やっと言ってくれた。遅い、馬鹿」
 ぎゅ、と抱き返してくれて、さらに涙が止まらなくなった。

「必要なら、一緒に落ちてあげますよ」

 ぽんぽん、といまだに涙が止まらない背中を叩いてさすってくれる。
 それで気持ちが決まったよ、茅ヶ崎。


 落ちない。落とさせない。
 今度は俺が引き上げてみせるから。



2018/08/16
お題箱より「千景さんの涙」ハピエン指定でいただきました!
  
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