華家



クラクション


 出勤時刻が被る。同じ寮に住んでいて、同じ職場に勤めていれば、それはなんら不思議な事ではない。
 海外の取引先を主に担当している卯木千景が、早朝に寮を出たり反対に昼からの出勤だったりということはあるが、それも月で数えればわずかなものだ。
 千景が昼から出勤の日は、至が起き出してもまだ眠っている。
 物音には敏感だと言っていたのに、至の立てる音に起きないのは、信頼からくるものなのか、よほど疲れてぐっすり眠っているからなのか、それとも狸寝入りなのか。
 まあそのどれだとしても、至はそんな千景の寝顔をしばし堪能してから部屋を出る。

 しかし千景が朝早く出ていく時は、目覚ましで起きれば部屋には当然誰もいない。千景の立てる物音に気づくような浅い眠りでもない至は、ほんの少し悔しい。せめておはようくらい最初に言いたかったのにと。

 同時に、寂しい。
 千景が入寮してここで睡眠を取るようになるまでは、ずっと一人部屋を堪能していた。気楽で、寂しいなんて少しも思わなかったのに。
 慣れというものは厄介だな、と思う。
 千景のいる空間に慣れてしまった。いちばん始めに千景の声を聞くことに慣れてしまっていた。

 だけどいまだに、慣れないことがある。
 昨夜、明日は一緒に行くからと言われていた。それは一緒に車に乗せていってという意味である。それは別に構わない。向かうところは同じなのだし、千景はガソリン代のつもりでか律儀に昼食をおごってくれる。絶対に昼食代の方が高いのにだ。

 慣れないのは、そんなつかの間のデート気分に、浮かれてしまえる自分にだ。
 たかだか数十分、千景と二人きりの空間にいられる。それだけなのに。

 我ながら、卯木千景を大好きすぎる。
 寮の部屋でも二人きりなのに、何をそんなに浮かれるのか。
 そう思いつつも、支度を調えた千景とともに愛車に乗り込む。
 千景と二人で通勤するようになってから、ただの「車」が「愛車」に変わった。シートベルトを締める仕種にさえ胸がきゅんと締めつけられる。小学生か、と思わないでもない初々しい恋心は、日に日に募っていった。

 車内での話題は、劇団のこと、春組のこと。朝食の話、監督のカレーの話。
 カレーの話になると必ず千景のスパイス論が繰り広げられる。至は正直言ってスパイスになどこれっぽっちも興味はないが、スパイスのことを話す時の千景は妙にキラキラしていて嬉しそうで、なんとも可愛らしい。
 朝から幸せそう、なんて思う自分の方こそほわほわと幸せな気分になって、会話がふわふわ浮き上がる。

 そんなふうだからか、数十分の通勤時間はすぐに過ぎてしまった。こんな時ばかりは、道路の信号が全部赤であればいいと思うのだ。
 はあ、と残念に思いながら駐車場に車を停めた。

「じゃ、また後で」
 千景はすぐに車を出るけれど、至は運転中に回復したソシャゲ体力を消耗してからおりるため、ここで別れるのはいつものことだ。
 この『後で』が社内なのか退勤時なのか、寮の談話室でなのか、それとももっと色っぽい場所でなのか、それは分からないけれど、またすぐに『逢える』という思いが、至を安堵させていた。

「あ、ちょっと待って」
「え?」
 いつもならここで別れるのに、珍しく千景が声をかけてきた。至はスマホから視線を移して顔を上げた。
「なんですか?」
「ネクタイ、曲がってる」
 直すよ、と言う彼に甘えて、運転席に座ったまま助手席の方を振り向く。千景の綺麗な指先がネクタイに伸びたと思ったら。

「ん……ッ」

 ぐい、と引っ張られ、唇が合わさった。驚く暇もなく軽く舌を絡められ、すっと離れていく千景を茫然と眺める。
「ん、やる気になった」
 本当に乱れていたのか今わざと乱れさせたのか、千景は至のネクタイをきちんと調え、ドアを開けてさっさと車から降りていく。
 至は車内にひとり、取り残された。

「ちょ、反則だろ……」

 まさか千景からそんなことをされるとは思っていなかった、とか。
 出勤時の駐車場なんて誰が見ているか分からないのに、とか。
 千景のことだからそんなことは想定済みで人気なんてなかったんだろうとは思うけど、とか。
 あんまりに突然で感触を楽しむ余裕もなかった、とか。

 いろいろ考えたいことはたくさんあったのに、とくに最後のは重要な問題だったのに、想定外の行動にひどく動揺した。

 ずるい。ばか。すき。

 怒りたい気持ちと慌てる気持ちと朝から幸せな気持ちとで、体の中がいっぱいになる。
 思わずハンドルに体を突っ伏せば、プワァーンとクラクションに怒られた。



2018/06/12
#あなたの文のワンシーンを私の文体で書く というタグより、かなれさんの(http://privatter.net/p/3509007)を書かせていただいた(o´∀`o)
  
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