華家



「茅ヶ崎限定」


「目が痛い……」
 もうすぐでかける時間だというのに、千景がそう言って指で目を押さえる。至は髪の先を整えて、千景を振り向いた。
「昨夜遅くまでネットでもしてたんですか? 自業自得ですよ」
「お前に言われたくない」
「俺別に目なんか痛くないですし。ちょっと眠いだけで」
「それこそ夜遅くまでゲームしてたせいだろ」
 いつものことだと、千景は呆れながら答える。それは事実で、眠いと愚痴を言っても確かに自業自得だ。今日出かけるのは決まっていたことなのだし、それに備えて早く寝るべきだったとも、今になって思うのだ。
 だがしかし、イベントを逃すわけにもいかず、結局いつもと同じ時刻に眠りに就いたのだった。
 至にとってそれは日常茶飯事だが、千景の方は珍しい。遅くまでパソコンを開いていたことではなく、そんなふうに不調を訴えることがだ。

 もしや今日出かけることに乗り気ではないのだろうかと心配になるが、着替えだけはしていて、しかもちゃんと気合いを入れてオシャレをしてくれている。
 デート、なんて可愛らしい言葉で飾っていいのか分からないけれど、今日はそういうことである。とはいっても二人きりではないのだが、恋人同士としては大事なイベント。
 それにちゃんとオシャレをしてくれるということは、千景も楽しみにしてくれているはずで、行きたくない言い訳ではないようだ。

「目薬差したらどうです? 疲れてるんでしょ」
「目薬……」
「ほらこすったら駄目ですってば」
 不快さをごまかすためにこすっても、解決には至らない。千景の手を取って止めさせ、じっと瞳を覗き込んだ。鋼を思わせるブルーは至の好きなもののひとつで、下手にこすって傷つけてほしくない。

「……持ってないし」
「は? あれだけパソコンしてて持ってないとか、Mなんですか?」
「いや……Mではないと思うけど」
 普段なら茶化して返してくるだろうに、真面目に返されて面食らう。相当疲れているのではないか。

 しかし、持っていないから差せないというならば、至が自身でストックしている新品をあげようではないか。
「はい、これあげますから。ビタミンBだかEだかが効くみたいですよ」
 目薬を箱ごと手渡すも、千景はなかなか開けようともしない。至は不思議に思って首を傾げた。差した方がいい目薬が手元にあるのに、ためらう理由が分からない。
「先輩?」
「……差さなきゃ駄目か?」
「痛いの続きますよ」
 う、と言葉に詰まるくらいには、疲れ目が深刻らしいのに、どうして――と考えて、ふとひとつの可能性を導き出した。

「……先輩、もしかして目薬差せない?」

「………………笑うなよ」
「いや別に笑ってはないですけど。意外……」
 笑ってないと言いつつも、口許が緩んでしまう。完璧に見える千景でも、苦手なことやできないことがあるのだと知るたびに、愛しさが増すだけだ。

「たまにいますよね、自分で差せないって人。先輩がそういうタイプとは思わなかった」
「俺は目薬を差せるヤツの方が信じられない。上を向くから喉元が無防備になるんだぞ? 急所をさらすなんてよくできるなと思う」
「思わぬ理由にワロタ」
 焦点を合わせられなくて上手く差せないだとか、痛いから嫌だとか、うっかり目をつむってしまうだとか、そういう理由ではないようで、いっそ千景らしいと思ってしまう。  確かに上を向いて差す時、喉元は非常に無防備だ。狙ってくださいと言わんばかりにさらけ出されていて、千景の〝職業〟を考えれば不思議もない。

 だが、疲れ目のまま出かけさせるのも忍びない。
「じゃあ、俺が差してあげますから。それでおk?」
「え?」
「ひーざーまーくーら。それなら平気ですよね」
 至はそう言ってソファを指さし、そこで寝転がった状態ならばいいだろうと提案してみた。
「……ん」
 千景は少しためらいつつも、先ほど渡した目薬をよこしてくる。優位に立てることが嬉しいのと、千景が少し子供っぽく見えるのとで、くすぐったい気持ちになった。

 至はニコニコ顔でソファに腰をかけ、ぽんぽんと膝を叩く。そこをめがけて、千景が横になった。千景に膝枕をするのはこれが初めてではないが、相変わらず気分がいい。
「目、閉じないでくださいね。まず右からにしましょうか」
 あやすように髪を撫で、右の目蓋に触れる。長い睫毛だなと思いながら、新しい目薬を二滴ほど、瞳に向けて垂らしてみた。
「瞬きしてください、痛くないですか?」
「……平気。少しじんじんするけど」
「それだけ疲れてたんじゃないですか? はい次は左」
 右が終われば左だと、目薬を差す。水滴を受けて、千景はぱちぱちと瞬いた。
 よくできましたと、小さな子にするみたいに髪を撫でたが、千景にはそれも不快でないらしく、気持ちよさそうに目蓋を閉じている。
「昨夜、なんでそんな遅くまでパソコン開いてたんですか?」
「うーん、ちょっとデートスポット検索しててね」
「突然デレるのやめてもらえません!? くっそ……今キュンときたキュンと」
 まさかそんな理由だとは思っていなくて、うっかりときめいてしまった。ときめかすなら予告がほしいと、千景をほんの少し憎らしく思う。千景は満足そうに笑っていて、至はすっと目を細めた。
「先輩、俺が喉を狙うとは微塵も思ってないんですね」
「茅ヶ崎が? ……ないだろ。お前が殺意持ったとしてもすぐに分かる」
「殺意じゃないですよ。ここ……無防備なうちに、ほら」
 膝を立てて千景の頭を押し上げ、指先で無防備な喉元に触れる。その軌跡をたどって、唇を這わせた。
「こら、くすぐったいぞ」
「狙い撃ち、ですよ」
「口は?」
「そっちがいいですか? 今日の先輩、なんだか可愛いですね」
「ちょっと浮かれててね」
 ふふ、と笑う唇にキスを――しようとしたところで。

「お――い。そろそろ出かけねーと」

 千景のものではない、もちろん至のものでもない声が耳に入った。その声を振り向けば、ドアのところで呆れた顔をした摂津万里がいた。
「あれ、もうそんな時間かな?」
「白々しいっすよ千景さん、俺たちがいんの分かってたんじゃないすか」
 至が千景から体を離し、千景も自分の力で起き上がる。こんな場面を見られても二人が慌てないのは、知られているからだ。

 それと。

「ご、ごめんね至くん、千景さん、邪魔しちゃって」
 万里の背後から、頬を染めた月岡紬が顔を出す。この二人も、至と千景のようにお付き合いをしているため、共犯者同士、一緒に出かけることが最近多い。今日は四人で脱出ゲームに挑むのだ。
「ホントだよ、いいとこで邪魔してくれちゃって。今日は紬たちのオゴリかな」
「ええっ?」
「おいふざけんなこの廃人ゲーマー。だいたい、決めた時間にアンタらが来ないからだろ」
 そういう共同戦線が敷かれていても、紬は未だに照れくさいらしく、からかいの標的になってしまう。しかしナイトよろしく万里がフォローするのが常となっており、通過儀礼のようなものだった。

「ああ、ごめんごめん、それは謝るわ。だって先輩が珍しく甘えてくれて嬉しかったんだよね」
 至はそう言いながら身だしなみを調え、盛大にのろけてみせる。

「えぇ……千景さん甘えたりするの? あんまり想像できないね」
「そんなとこ見せるの茅ヶ崎限定だしね」
「至さんの方が甘えんじゃねーの?」
「俺もそうかなって思ってた。俺もつい万里くんに甘えちゃうからなあ」
「もっと甘えてくれてもいいんすけどね。俺だって紬さんに甘えたりすっから。……あ、そうなると千景さんが甘えるってのもアリ? アリか……」
「あー、万里が甘えてんのは想像できるわ。紬大変そう」
「え? 別に大変ではないっていうか……嬉しいばっかりかな?」
 ね、と紬が万里を振り向く。思わぬ爆弾を落とされて、万里は顔を赤らめて背けてしまった。紬の方が一枚上手かなと、至は口の端を上げる。
「さ、出かけようか三人とも。記録塗り替え楽しみだな」
「足手まといにならないようにしますね」
「俺も頑張るよ、万里くん」
「おー、じゃあ行こうぜ」
 そうして二組のカップルは、脱出ゲームに出かけていく。

 記録を塗り替えたのはもちろんのこと、掲示板のスレッドには〝顔面偏差値も数値振り切ってた〟と書かれていたとかいないとか。



2018/08/26
お題箱より「千景さんが甘える話」万紬も絡めてということでいただきました
  
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