華家



おかえりなさい


 おかえりなさい。
 そう声をかけても、何も返ってこなかったことを不審に思い、至はソファの上から千景を振り仰いだ。逆さまに視界に映る千景は、ひどく疲れているように見える。

「先輩?」
「え? あ、ああ……ただいま」
「……おかえりなさい」

 千景はスーツの上着を脱ぎ、ハンガーに掛ける。いや、掛けようとして、落とした。あ、と小さく漏れた声も、疲労が含まれている。ため息をついて上着を拾い上げ、しっかりとハンガーに掛け直した。
 至はソファの上に体を起こし、改めて千景を見やる。
 緩慢な動きをする指先。ネクタイを緩めて外すのも、ボタンを外すのも、眼鏡をプライベート用に変える仕種さえも、彼らしくなく、ぎこちない動きだった。

(何かあったかな。仕事? それとも……〝仕事〟の方?)

 劇団の中で何かあったようには思えない。夕食時のことを思い起こしても、他の団員に変わったことはなかったからだ。密と何かあったのだとしても、こんなふうにはならないだろう。
 千景が、人には言えないような仕事をしていることは知っている。詳しく聞いたことはないが、それらしい部分を見てきてもいる。
 好んでその世界にいるわけではないことも。
 至はひとつ瞬きをして、小さく息を吐いた。
「先輩」
「……なに、茅ヶ崎。俺の着替えじっと見たりして。視姦されてる気分だったよ」
「そういう気分なら、どこか行きます? 俺は構いませんけど」
 千景が茶化してみせても、声に覇気がない。至がそれに気づいていることも、千景は分かっているだろうに。

 至はぽんぽんとソファを叩いてみせる。ここに座って、と自身の隣を。
 普段の千景なら、そんな誘いには乗ってくれなかったかもしれない。だけど、素直に歩み寄ってきて、ゆっくりと腰を落としてくれる。
 どこかためらいがちに隅の方に座った千景に身を寄せて、両手で頬を包んだ。
「随分疲れた顔してますよ」
「そう?」
「徹夜明けの俺くらい」
「……それは随分ひどい感じだな」
 目を眇め、千景が小さく息を吐く。至はそれに笑って、唇を押しつけた。
 押しつけて、触れるだけ。それ以上は特に望まずに、体を離す。

 そうして、ごろりと寝転がった。ソファの上、千景の膝を枕代わりに。

「……あのさ茅ヶ崎、普通こういう時って、俺が膝枕してもらう方じゃないのか」
「やですよ、重いし。脚がしびれそう」
「我慢しろ、それくらい」
「やーですー。先輩は俺の寝顔でも見て癒やされればいいんですよ」
「癒やされるか、馬鹿」
 そうは言いながらも、千景の手がそっと髪に触れてくる。
 膝から見上げる彼の顔は、苦痛そうに歪んでいて、見てはいけないような気さえして、至はそっと目を閉じた。

「……なにも、訊かないんだな、お前は」

 至の髪を撫でながら、千景が小さく呟く。至は目を閉じたまま、千景のしたいようにさせていた。
「訊いた方がいいんですか?」
 沈黙が流れる。
 言えないのは分かっていた。訊いてほしいわけでもないことも分かっている。至自身、すべてを受け止めきる自信なんてない。
「…………悪い」
「別に謝らなくても。聞いたところで俺が何かできるとは思いませんし。結局こうして、黙って先輩の膝枕で寝るくらいしか」
「……重いんだけどな」
「我慢してください、それくらい」
 先ほどのやりとりをトレースし、至は髪を撫でてくれる千景の手を握る。千景が何者でも、どこで何をしていようとも、こうして触れられる。

 許される恋ではないかもしれないけれど、惚れた人が正義になってしまう。それでも、止めてみせるなんて言える力はないし、拒む勇気も持っていない。

「ねえ、千景さん」
「なに……」
「俺、もしもの時は――」
 言葉に詰まって、唾を飲む。
 きゅっと千景の手を握りしめ、再び口を開く。
「もしもの時は、一緒に、なんて言えませんから」
 逃げようとも、死んでくださいとも、言えやしない。
 千景は言ってほしいかもしれない。一緒に逃げてほしいかもしれない。一緒にいられない自分を、捨てていくかもしれない。

 それでも、言えない。

 悔しいのか、悲しいのか、泣き出しそうで喉が詰まりそうだった。
 ぐんと体が持ち上がる感覚があって、至は目を開けて、閉じて、また開ける。
 千景の顔が、ものすごく近くにあった。

「心配するな。言わせない」

 そのあとすぐに、唇が塞がれた。物理的に何も言えない。言えなくされた。至は千景の首に腕を回して、体を密着させて捕まえる。
 逃げようとも、死んでくださいとも言えない。
 至に言えるのは、ひとつだけ。
 おかえりなさい。
 ただ、それだけだ。



2018/11/10
お題は「枕」
  
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