華家



きみといっしょに


 ばしゃばしゃばしゃ。
 踏んだ水が跳ねて、パンツの裾を盛大に濡らしていく。だけど今この時点で、それを気にしている余裕なんかなかった。恐らく、道行く人の誰にもだ。

「紬さん、あそこ」
「うん」

 無駄だと知りつつも、万里は腕を目の少し上にかざし視界を確保する。突き刺さらんばかりの勢いで降る雨に、そんなものがどれだけ有効だろう。
 こんな日に限って傘を持ってきていない。おまけに傘を売ってそうなコンビニも雑貨屋も、目の届く範囲にはなかった。しかし運良く、ひさしのある建物を見つける。そこに紬を促し、どうにかびしょ濡れの大惨事はまぬかれたわけだが。

「ッあーもう、今降るかよ!?」
「びっくりしたね……降るの夜って言ってた気がするんだけど」

 ひとまず雨の攻撃を避けられる場所で、万里は濡れた頬を濡れた腕で拭う。それに気づいた紬が、鞄からハンカチを取り出した。

「万里くん、使って」
「や、いーすよ。アンタ使えば」
「駄目だよ、風邪でも引いたらどうするの」
「風邪引きそうなのアンタのほうだけどな、紬さん」

 見るからに体力なさそうだし、と笑って付け加えると、うん体力はあまりないけどねと、頬にハンカチを押しつけられた。

「使って」

 真剣なまなざしに射貫かれて、万里の胸が鳴る。

「…………サンキュ」

 なぜ、そんなにも頑ななのか。年下の未成年に風邪でも引かせたら、オトナの責任だとでも思っているのだろうか、この頼りない風に見える成人男性は。万里は仕方なくそのハンカチを受け取って、額や頬についた水滴を拭った。

 ――――こんなもんでドキドキするとか、小学生かよ……。

 青い縦縞の清潔なハンカチ。紬のものだと思うともったいなくて、だけど貸してくれたことがとても嬉しい。
 好きな相手の持ち物で、自分を拭うことの気まずさと、むずがゆい幸福感。
 まさか気づかれてはいないだろうけど、摂津万里は月岡紬が好きだった。いや、だった、ではなく、現在進行形だ。
 いったいいつ、そういう対象になってしまったのか分からない。よくカフェでお茶をするようになり、月岡紬というひとりの男を知っていくうちに、膨らんでしまった恋心。
 気がついたのは、些細なきっかけ。
 たまたま入ったカフェで、紬を見つけた。約束をしていたわけでもないのに、その偶然と、紬が笑いながら言ってきた言葉に、心を全部持っていかれてしまったのだ。

『たまにはひとりもいいかと思ったけど、駄目だね、寂しい』

 LIMEしようと思ってた、と途中まで打ち込んだアプリ画面まで見せられて、戻れなくなったのは、二ヶ月ほど前。
 想いを告白しようにも、玉砕すること必至の恋だ。諦めるというわけでなく、ただ純粋に、紬を困らせたくない。きっと、悩んで、迷って、めいっぱい躊躇って、悔しそうにごめんと言ってくるはず。
 自分のことで悩んでくれるのは嬉しいが、だけどやっぱり困らせたくない。
 告げずにさえいれば、紬とこうしてでかけることができる。恋心を押し込めて押さえ込んで鍵をかけて、今日はどこのカフェに行こうなんて訊ねることができる。
 今日も、そうして誘い出したのだが。

「ごめんな紬さん……連れ回したあげく、濡れさせちまって」
「えっ、ううん、いいよ、だって俺も連れ回したじゃない。万里くんお花とか興味ないでしょ」
「あー、まぁ、ねぇけど。アンタが楽しそうに花とか見てんのは面白いかな。あ、紬さん肩すげぇ濡れてる。つかほっぺたも」

 万里は紬に借りたハンカチで濡れていないところを探して畳み直す。紬も雨に濡れてしまっているのだから、処置をしておかねばそれこそ風邪を引いてしまう。丞あたりに怒られるのは目に見えていて、そっとハンカチを差し出した。

「あ、大丈夫だよ。平気」
「平気じゃねーって。使った後で悪いけど……つか、拭くから動くなって」

 他人の使ったハンカチを使いたくないのか、単に遠慮しているだけなのか、紬は自身のハンカチを受け取ってくれない。困ったような表情は万里をも困らせて、仕方なく、本当に仕方なく、紬が逃げないように腕を掴んだ。
 頬に、ハンカチを当てる。すっとハンカチに染み込んでいく水滴を凝視して、万里はハンカチ越しに紬に触れた。
 頬、鼻筋、顎、首、髪。丁寧にしようと思えば手つきがゆっくりになってしまって、より長い時間触れる事になってしまう。それはそれで嬉しいのだが、何かの拍子に気づかれてしまいそうで恐ろしい。

 ――――そんな風に目ぇ閉じんじゃねーよ、無防備すぎ。キスしちまうぞ。

 目蓋についた水滴を拭おうと目許付近に手をやった自分が悪いのだが、この体勢でその仕草はやめてほしいと、理性を総動員させる。

「……ま、こんなもんかな」
「あ、ありがと……」
「はー、これしばらく止まねーよなあ……どーする紬さん」

 借りたハンカチは洗濯して返すから、と万里はポケットにしまい込む。空を見上げてもまだまだ止みそうもなくて、このままここにじっとしていては寒さで結局風邪をひいてしまうだろう。それでは元も子もない。
 万里は携帯端末で近くに休めそうな店がないか検索する。もしくはコンビニだ。傘さえあればこの豪雨の中でも、帰って熱い風呂に入れる。

「あ、そこの角にコンビニあるわ。なあ紬さん、ちぃっとここで待っててくんねぇ? ひとっぱしり傘買ってくっから」
「え? 駄目、こんな雨の中、万里くんに行かせられないよ。俺が買ってくるから、万里くんが待ってて。駄目なら俺も行く」
「いや意味わかんねーし。俺のが足早いじゃん?」
「うっ……で、でも、やだよ……ひとりでいるの」

 少し顔を背けられて、万里は頭を抱えたくなる。どうしてそんなにも可愛らしいことを言うのだろう、この男は。確かにこの雨の中一人で待つのは心細いだろうが、それだって数分だ。

「万里くん、一緒に行ったら駄目かな……」
「…………ちゃんと走れるんすか」
「が、頑張る」
「わぁったよ、じゃ、行くぞ」
「あっ、ちょっと待って、十秒!」

 結局折れてしまい、雨の中へ駆け出そうとした時、紬の慌てた声。何だ十秒って! と振り向いた万里の手を、握るものがある。

「あと十秒、多分雨足が弱まる」

 紬の、頼りないと思っていた手だ。
 万里の体を、熱が駆け巡った。

 ――――な…………んだこれ!! 十秒もこれっ……、無理!

 紬はじっと空を見上げている。雲の動きでも見ているのか、絡んだ指先に力がこもったのに気がついていない。

「向こうの角、だよね」
「お、おう。――走っぞ!」

 十秒、経ったかどうか。紬が繋ぎ止めてくれた手を離したくなくて、万里は指を絡めたまま、紬と一緒に雨の中へ駆け出していった。


 ばしゃばしゃばしゃ。
 水が跳ねて靴も裾も濡らしていくけど、やっぱりそんなこと、気にする余裕なんてどこにもない。



2017/06/10
お題「雨」
  
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