華家



祈り


 珍しい光景だと思った。
 同時に、見てはいけないものを見たような気がした。

 安っぽくも高級でもないホテルの一室、卯木千景はベッドの縁に腰をかけて俯いていた。バスルームの陰から、それが見える。何でもそつなくこなす職場の先輩とは思えないような、悲痛そうな顔をしている。
 仕事がうまくいっていないわけではないだろう。スケジュールがハード過ぎて嘆いているわけでもなさそうだ。
 至は物珍しさ――多分に好奇心を含んで物陰から眺めたが、後悔した。

「オーガスト……」

 彼の手には、携帯端末と、その上に乗る写真のような紙切れ。
 外した眼鏡を持ったまま、千景はその紙切れと端末に額を押しつけた。彼の呼吸が震えていそうで、至の呼吸も震える。
 ズキ、と心臓が痛んだ。
 心臓が痛んだことが衝撃だった。どうして、と素肌のままの胸を押さえ、震える唇でどうにか息を吸い込む。

「先輩」

 そう声をかければ、千景はハッとして顔を上げ、端末と紙切れをポケットにしまいこみ、眼鏡をかけ直し、いつものうさんくさいくらいの笑顔を向けてきた。
「おいおい、せめてタオルくらい巻いてこい」
「いいじゃないですか。どうせ脱ぐんですから」
「そうだけどね。茅ヶ崎はもう少し恥じらいってものを覚えた方がいい」
「今さら」
 ハハッと笑って、至は足を踏み出した。千景の待つベッドの方へと。
 千景と関係を持つようになって、数ヶ月。
 そこには恋愛感情なんてないし、ただ気持ちよければいい、そう思っていた。今この瞬間も、至はそう思っている。
 千景のことは、かけらも知らない。職場の先輩であることから、仕事がデキること、女性にも人気があること、どうも辛い物が好きらしいということは知っているが、それだけだ。どこに住んでいるのかも知らない。家族構成も、学歴も、もちろん恋愛遍歴も。
 セックスをするのにそんなもの必要ない。
 ただお互いの気が向いた時にこうしてホテルで落ち合うだけなのだから。

 だから、千景がどうして至を抱くのか、少しも分からない。

 分からないからこそ、気にかかった。
「じゃあ、俺もシャワーしてくるよ。良い子で待ってろ」
「……ねえ、俺が相手でいいんですか?」
 バスルームへと向かう千景とすれ違いかけて、至は痛む心臓を押さえながら口にする。不審そうに振り返った千景に、無理に口の端を上げてやった。

「オーガスト」

 千景の表情が一変する。うさんくさい優しさは消え、先ほどの苦痛さの混じるものでもなく、驚愕と失望の入り交じる瞳が至を射貫いてきた。

「先輩、海外出張多いですよね。向こうの、……恋人、ですか?」
 オーガストというのは、8月を意味する。だけど8月の予定を確認していただけだなんて思えない。慌ててポケットにしまい込んだ端末と紙切れは、相当大切なものなのだろう。それに気づかないほど疎くはない。
 何しろ千景は、至が初めての相手というわけではなさそうだったからだ。至の方は千景が初めてだというのに、彼は最初から慣れた手つきで体をずっと奥まで暴いてくれた。
 他にも誰か、相手がいるのだと思うのが当然の流れだ。
 別に構わない。自分たちは恋人同士ではないのだし、特定の相手がいようと、責める立場にはない。
 分かっているのに。

「俺、日本での遊び相手、ですよね。大丈夫ですか? ちゃんと代わりになってます?」
 千景に、大切な人がいる――それを考えるだけで、張り裂けそうなほど胸が痛む。
 どんな人なのか、相手もちゃんと千景を好いてくれているのか、どんなふうに千景を抱きしめるのか、千景はどんなふうにその人を抱きしめるのか、どんな瞳でその人を――。
 そこまで思った時、千景の指先が喉元に触れた。
 冷えた指先に、びくりと肩が揺れる。見たこともない鋭い瞳に、背筋が震える。

「茅ヶ崎。二度とそれを人の名として口にするな。死にたいのか」

 踏み込んではいけない部分だったのだと、今さら気がつく。いや、最初から分かっていた気がするのに、どうしても知りたかった。千景にあんな顔をさせるものの正体を。
「…………すみません、立ち入ったこと聞いて」
 逃げ出したい。泣き出したい。
 千景にとって、〝オーガスト〟という人は、大切な相手なのだ。大切だなんて言葉では表しきれないほどに、かけがえのない存在なのだ。他人が名を口にすることも許せないほど、愛しい存在に違いない。
 気がついてしまった。

「……そういう意味で言ったんじゃない。別に茅ヶ崎を代わりにしてるつもりもなかった」
「いいですよ、ただのセフレに、気なんか遣わなくても。今日はそういう気分じゃなくなったなら、帰りますし」
「いいから、いろ。ベッドで、ちゃんと、待ってて」
 千景の指が、喉を離れて唇を撫でてくる。ちゃんと待っててという言葉が、本当に寂しそうで、至は頷くほかになく、少し冷えた体をブランケットに包んでベッドに横たわった。

 気がついてしまった。

「…………好き、なのか……」

 千景のことが、好きなのだと。
 千景の心の中にいる〝オーガスト〟に、嫉妬してしまったのだと。
 ただ体を繋げるだけの間柄である自分では、千景の心の中に入り込めない。好きなのだと気がついても、言葉にできない。音にならない。玉砕することが分かっていながら告げる勇気なんかない。
 面倒だからと、触れてくれなくなるかもしれないと思うと、この気持ちは墓場まで持っていくしかないのだとくるまったブランケットをぎゅっと握りしめた。

 あんなふうに、祈るように名を呼ばれる人が羨ましい。どこにいるのか、どうして千景の傍にいられないのか、どうしてあんな顔をさせるのか、いつか逢えたら聞いてみたい。

 そうして、お願いしてみよう。

 どうか、あのひとをひとりにしないでほしいと。
 どうか。

「……オーガスト……」

 二度と口にするなと言われた夜に、誰にも聞こえないように、ひっそりと、祈るように、もう一度だけ呟いた。



2018/08/02
お題箱より「オーガストに嫉妬する至」 セフレ設定で。千景は密のこともまだ知らない。
  
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