華家



今日は言わないはずだった


 雨だな……。
 卯木千景は、ビルの窓から土砂降りの雨の軌道を眺め、嘆息した。ちらり、と、フロアに視線を走らせる。頑張って残業少なめで終わらせてきたらしい男がひとり、目に入った。

「茅ヶ崎、今帰りか」
「ああ……お疲れ様です、先輩」

 にっこりと、職場用の顔で笑うのは、茅ヶ崎至。千景の後輩で、劇団の仲間だ。しかも、寮でのルームメイトである。

「ちょうど良かった」
「は? ……先輩、もしかして今日、傘持ってこなかったんですか?」

 怪訝そうな顔をした至だが、すぐにその可能性に気がついて、ニヤリと意地悪そうに口の端を上げた。至が優位に立てるなんてシチュエーションが、めったにないからだろう。

「朝、少しバタバタしてただろう」
「そうでしたっけね」
「茅ヶ崎と時間が合って良かったよ。帰ろう」

 それだけ言って、千景は下に降りるためにエレベーターへ向かって歩き出してしまう。至は、む、と口をへの字に曲げた。
 そんなに小さな傘ではないし、帰る場所も同じなのだ、二人でひとつの傘を差して歩くことは、やぶさかではない。
 ないが、その言い草には物申したい。お願いしますの一言もないものだろうか。

「せーんぱい」

 至は千景の後を追いかけ、追いついてジャケットの袖をツンと引っ張った。
 立ち止まって振り向いた千景に、笑って一言。

「……入れてください・・・・・・・、は?」

 千景がぱちぱちと目を瞬く。その顔を見られただけでも充分だが、こんな機会はめったにないと、意地悪を続行した。

「だって俺の傘ですし? ほら、親しき仲にも礼儀ありって言うでしょ」

 意地悪とは言うが、何もおかしなことは言っていないはずだ。人の傘を当てにして、お願いしますもないのでは、筋が通らない。
 千景は、そんな至に向かってふっと笑ってみせた。

「いいのかな? 茅ヶ崎」
「え?」

 千景はそっと辺りに視線を巡らせ、誰も居ないことを確認し、至の耳元に唇を寄せる。そうして吐息のように囁いた。

「後で〝入れてください〟っておねだり・・・・するのは、お前の方なのに」
「なっ、ちょっ……!」

 至はその色のついた声と言葉にぞわりと肌をあわ立たせ、バッと飛び退く。囁かれた耳を押さえ、顔を真っ赤にし、慌てて周りを見渡す。そんな様子に千景が笑うのを見て、してやられたとるふる唇を震わせた。

「いっ、言いませんよ、今日は!」
「へぇ……それは楽しみ」
「先輩が言うなら、言ってあげてもいいですけどね」
「茅ヶ崎、俺に入れたいの?」
「職場でそういうこと言うのやめてくれません?」

 口では勝てないと、至は諦めて先にエレベーターへと歩む。まだ顔が熱いような気がして、パタパタと手で扇ぐ羽目になった。
 定時を少し過ぎているからか、エレベーターにも誰もいない。喜んでいいのかどうか、複雑な気分だった。
 恋人と二人きりなのは嬉しいが、ここは職場だ。おおっぴらにイチャつくわけにもいかないだろう。まあもともとが、そうおおっぴらにイチャつくような可愛らしい間柄でもないのだが。
 ちら、と至が千景に視線をやると、千景の綺麗な横顔が目に入る。顔も良いし仕事もできるしベッドをともにすれば気持ちが良いし、正直チート過ぎるスペックなのだが、

「茅ヶ崎。今日雨になるって知ってて、わざと徒歩で出勤しただろ。そんなに俺と相合い傘したかった?」

 この察しの良さだけはどうにもいただけない。至はそっと目を伏せて答えた。

「なんのことですか? ガソリン入れ忘れてたからですよ」
「へぇ。あとで確認しておこう」
「先輩こそ、その鞄の中に折りたたみ傘入ってるでしょ。そんなに俺と相合い傘したかったんですか?」
「なんのことかな」

 エレベーターが一階にたどりつき、ドアがゆっくり開く。

「嘘つき」

 同じタイミングで足を踏み出し、二人は同時に呟いた。





 少し濡れましたね。
 そう呟いた至の髪から、ぽたりと落ちる雫。千景はそれを見下ろして、そうだなと返す。この土砂降りでは、傘があってもどうしても濡れてしまう。
 できるだけ至の方に傘を傾けてはいたが、吹き込む風で防ぎきれなかったようだ。

「先輩、上着。こっちにかけますから」
「ああ、ありがとう」

 クローゼットにあったハンガーに、スーツのジャケットをかけた至が、千景のものを預かろうと手を伸ばしてくれる。
 そんな何気ない気遣いが、どうしようもなく愛しかった。

(気づいてないんだろうなあ、あれ)

 ふ、と息を吐くように笑えば、じんわりと胸が温かくなってくる。こんな気持ちになるなんて、少しも思っていなかった。

「シャワーしてきますね」
「茅ヶ崎、一緒に入ろう」
「は!?」

 お先にとバスルームへ向かおうとする至の腕を掴み、引き留めて追いつく。顔を真っ赤にして振り向いた彼が、とても可愛らしかった。

「え、ちょ、なに……どうかしたんですか先輩」
「なんでかな」
「だ、だって今までそんなことしなかっ、て、待って、ちょっと」

 恥ずかしそうに視線を泳がせる至を引っ張って、バスルームへとなだれ込む。確かにそうだったかな? と千景は思い起こすも、恋人と一緒に入りたいと思うことになんの不思議があるのかと、至の口を塞いで黙らせた。




 背後から抱きしめて、つんと立った乳首を愛撫する。ふ、と唇から漏れていく吐息が、バスルームに響いた。湯を張ったバスタブに二人で浸かり、ゆったりとしたスキンシップを楽しむ。どちらかというと即物的な触れ合いをしてきた自分たちにとって、それは初めての営みかもしれなかった。

「茅ヶ崎、気持ちいい?」
「……よくない、わけ、ないです……」
「そう……」

 耳元で囁くと、至の体がぴくりと揺れる。いつになく素直に応えてくれるのは、一緒に入ろうと誘ったのを喜んでくれているからなのか。
 こんなに可愛らしい姿を見られるのなら、もっと早く誘っていれば良かった。肩に口づけてちゅっと吸えば、くすぐったそうに身をよじり、抱く腕を撫でてくれる。

「先輩、じれったい……」

 ぐ、と腰を押しつけられて、千景はぱちぱちと目を瞬いた。確かにいつもよりゆっくりだったし、それを楽しむつもりだった。彼の乳首を撫でる指も、彼の中で動かしている指も、いつもと違ったかもしれない。
 至が限界ぎりぎりまで振り向いて、唇にキスをしてくる。
 らしくないことをしているのはお互い様だと胸が鳴った。

「……入れて、ください、先輩」

 今日は言わないと宣言していた至だが、どうも理性と羞恥を、欲望と愛情が凌駕したらしい。千景は意地悪をするつもりもなく、またどうしようもうない愛しさがこみ上げて、そっと耳に唇を寄せた。

「ああ、入れさせて、茅ヶ崎……」

 求めているのは至だけじゃないと、言葉の外に含めて囁けば、至は嬉しそうな顔をしてくれた。
 嘘で始まった今日の駆け引きは、お互いの本音と欲と愛情で包まれていく。ホテルの外はまだ雨の音がしているだろうが、恋人たちはバスルームで汗と湯に濡れて水音を立てるのだった。



2018/06/02
お題は「雨の日」と「嘘つき」
  
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