華家



治りませんでした

 ビカ、と鮮烈な光を放った数秒後に、ゴロゴロガゴンと空が騒音を響かせた。

「うわっ……えげつない……」
 至はそれに会社の廊下の窓で遭遇し、思わず肩をすくめる。雨だという予報はあったが、ここまでになるとは予想していなかった。
「今の、どこかに落ちたかな」
 横から声をかけられて、振り向きもせずに窓の外を眺めた。声をかけてきた相手も同じように立ち止まって、ガラスに打ちつけられる雨を眺めているようだった。

「ひどい降りになりそうですね」
「そうだな……茅ヶ崎、今日車だっけ?」
「あー、はい。定時で上がれそうなら、一緒に帰りましょ」
「うん。俺は問題ないけど、そっちは大丈夫なの? 予算案、できあがってないんじゃなかったっけ」
 視線だけで、隣に佇む恋人――千景を見やれば、愉快そうな顔で覗き込まれた。千景の言う通り書類の提出どころか完成もしていない状況で、締め切りは本日17時。あと2時間もない。
「い、今からやろうと思ってたんです」
「はいはい、ちゃんと待ってるから。頑張れ」
 そう言って、千景は至の手の中にチョコ菓子を落としていく。

 コンビニでよく見かけるものだが、千景が食べているところなど見たことがない。それはそうだ、彼は甘いものが好きじゃない。自分のために買うことはないし、彼に好意を持っている女性たちはもっとお高いスイーツを贈ってくる。

 となれば、これは。

(やばい、可愛い、どうしよう)
 千景が、仕事に行き詰まっている至のために買ってくれたものだろう。ランチの際に買ってきたのだろうが、これを持ってレジに並ぶ千景の姿を想像して、どうしても口許が緩んだ。
(がんばろ。ちょっぱやで終わらせて、ご飯誘ってみようかな。今日なら激辛カレーの店でもなんでもつきあえる)
 至は辛いものは苦手だが、そこは気持ちの問題だ。小さな菓子でも至のために選んで買ってきてくれたのだから、次は千景の好きなものをあげたい。
 ゲームのために働いている至だが、終わったあとのことを考えて、嫌な仕事にウキウキ気分でデスクへ戻っていった。



「残業10分とはね」
 エレベーターを降りてエントランスへと向かう。結局定時ぴったりに上がることはできなかったけれど、残っていた仕事量を考えればかなり頑張った方だ。
「待たせちゃってすみませんでしたねっ」
「いやいや、許容範囲だろ」
 くすくすと面白そうに笑う千景の横を、同僚たちがお疲れ様~と通り過ぎたり、今帰りなんだ~ともったいぶった視線を投げかけてくる。相変わらずの人気者で、恋人としては鼻が高い。
 やきもちを妬くこともあるけれど、今日はハッピーな気分でこっそり優越感に浸っていた。

「けど、本当に雨がひどいな……さっきちょっと止んでたのに」
「止んだの一瞬でしたね。今日車にして良かったわ~、駅まで歩くとか無理」
「スーツ濡れるしな。どうしても、足が。茅ヶ崎、ちゃんとクリーニング出せよ」
「……はーい」
 車とは言え、敷地内の駐車場までは徒歩である。水が跳ねて裾が濡れるのはどうしようもない。

 ビカビカと元気に光る空と、降りしきる滝のような雨。ときには風も吹いて、傘など無用の長物になる瞬間も。エントランスには、いつこの雨の中足を踏み出そうか迷っている同僚たちがたくさんいた。
「茅ヶ崎、走れる?」
「頑張ります」
「ハハッ、転ぶなよ」
 そんな同僚たちの合間を縫って、至は千景とともに駐車場へと向かって駆けた。相合い傘をしたいなんて可愛らしいことを言える状況でもなく、一人一本ずつの傘を差して。

「あぁ~逃げ切った」
「お疲れ」
 なんとか車に乗り込んだ数秒後、また雨足が強まった上に、強風も加わる。この視界の悪さでは運転も危険で、少し時間を置くことにした。

「先輩、ご飯どうします? もうちょっとマシになったらどこかで食べていきません?」
「そうだなぁ……雨だし、ちょっと憂鬱な気分飛ばしたいしね」
「雨、嫌いですか?」
「外に出てるときの雨はね。こうして中で見てる分にはそれほどじゃない。茅ヶ崎は雨嫌いじゃない?」
 至は例によって携帯端末でいつものゲームにログインし、ミッション開始している。そんな中での会話も千景は気にならないらしく、車の外の雨の音を楽しんでいるように感じた。
「雨は別にいいんですけど、雷は滅べ派」
「へぇ? もしかして、こわ――」
「オンゲとか実況配信してるときに停電にでもなったら死ぬ」
「そっちか。さすが茅ヶ崎だな」
 呆れたような笑い声が聞こえる。至にとっては重大で重要な事項だが、千景には理解しがたいだろうか。
「なんですか、怖いからとでも言えばよかったですか? すみませんね可愛くなくて」

「いや、茅ヶ崎は可愛いけど」

「はっ?」
 聞き慣れない言葉が聞こえてきて、至は思わず助手席の千景を振り返る。
 千景は、からかうふうでなく至をじっと眺めていた。ドアに腕を乗せてこめかみを指先で支える仕草がなんとも様になって、無駄に胸が跳ねる。
「可愛いよ。俺があげたお菓子ひとつでウキウキするところとか。俺と帰るために仕事頑張って早く終わらせるとことか、たまんないよね」
「酔ってます?」
「まだ飲んでない」
「たまに全力でデレるの心臓に悪いんですけど……動悸が激しい」
 おかげでミッションが完了しなかった、と諦めてゲーム画面を閉じ、ステアリングに突っ伏す。
「じゃあ治そうか」
「へ?」

 肩を掴んで体を起こされ、職場の駐車場だというのに、千景の唇が重なってきた。驚く暇もなく手のひらが心臓のあたりに当てられて、唇を撫でるように舌先が通っていく。

「先輩ここ駐車場……」
「この土砂降りじゃ見えないだろ」
「っていうか悪化したんですけど」
 ジャケットを除けてシャツ越しに触れてくる手のひらは、どう考えても煽っているとしか捉えられない。恋人にこんなことをされては、食欲より性欲が湧いてきてしまう。
「雨……少し弱まってきたかな」
「はい」
「……行こうか」
 千景は頬にキスをくれた。それは夜が始まる合図。
 雷じゃ、ゲームをするのも怖い夜。



2018/09/01
お題は「雨」
  
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