華家



右手に殺意を 左手に祈りを



 茅ヶ崎至は、きゅっとシャワーのコックを下げて、降ってくる湯を止めた。
 ぽたりぽたりと髪の先から落ちる水滴。細い指先で髪をかき上げて後ろに流し、脱衣スペースでバスタオルを持ち上げた。
 清潔なタオルは気持ちが良い、と体の水分を拭き取り、髪を拭く。軽くドライヤーをかけ、タオルを肩にかけるだけでバスルームをあとにした。
 服など着るだけ無駄だからだ。
(脱がす作業が好きとかいう人だったら、ちゃんと着たかな。や、でも面倒くさい)
 というのも、ここは自分の部屋ではない。入っている劇団の寮でもない。安っぽいわけではないし、逆に高級なわけでもない、そこら辺に立ち並んでいるホテルの一室だ。ただ、宿泊というより情事専門のホテルというだけで。
 至はバスルームのドアを開け、部屋にいるであろう相手に声をかけようとした。
 途中まで出かかった声が、唇の前で止まる。
 彼――卯木千景は、そこから見えるベッドの縁に、腰をかけていた。来たときのままのスーツ姿で、膝に腕を乗せて、項垂れている。
 珍しいものを見た気がした。
 卯木千景は、至の勤める商社の先輩で、担当は違うもののその手腕は誰もが知るところだった。
 仕事をスマートにこなし、同僚や上司の覚えもよく、下手な妬みや恨みは買わない。
 女性たちの憧れの的なのだろうに、浮いた噂は流れてこない。平等に接しているせいなのだろう。
 後輩へのフォローもしていると聞くが、正直そんな完璧な人間がいるものかと、至は思っていた。
 千景は海外の取引先を多く担当し、まだ経験の少ない至には関係のない部門で、交流もなかったせいか、噂でしか彼を知らなかった。
 いつだか、数部署合同の飲み会に、無理やり参加させられたことがある。その時だ、彼と初めて言葉を交わしたのは。
 柔らかい物腰と優しそうな声。そう思ったあとに、どこか噓くさいな――そう感じたのを覚えている。
 だけど、基本的に他人に興味を持てなかった至が、千景の〝噓〟に踏み込もうと思うはずもなく、そのまま会社の先輩後輩として過ごすはずだったのだ。
『茅ヶ崎って、他人に興味なさそうだな』
 帰る方向が一緒だったせいで、いつの間にか二人きりになってしまった際、冷めた声でそう呟かれ、心臓が飛び出るほど驚いた。
 会社ではそんなこと、隠してきたはずだったのだ。猫を被っていれば、仕事も人間関係もスムーズに流れていく。それを知っていたから。
『俺に興味のないヤツの方が、都合がいいか』
 そう言って笑ったあとに、千景の唇が重なってきた。拒まなかったのは、他人に興味がなさそうと言った彼の方こそが、誰にも興味がなさそうだったからだ。
 だからだろうか。興味を持ってほしいなんて思って、彼の誘いを受けたのは。
 同性とセックスなんて、考えたことがなかった。
 そんな至をさえ、ベッドの上で啼かせ、喘がせ、イかせた千景。悪くはないかな、とときおり体を重ねる関係になった。
 これが何度目なのかは、数えるのをもう大分前に止めていて分からない。
 だけど、両手で足りないくらいの回数を重ねていても、千景のあんな姿は見たことがなかった。
 珍しいものを見た、と思うと同時に、見てはいけないものを見たような気がした。
 千景の手には、見慣れない携帯端末と、写真のような紙切れが握られている。いつもかけている眼鏡を外し、その蔓を持ったまま目元を押さえる。
 疲れているのなら、こんなことをせずにまっすぐ家に帰ればいいものを――と至が思ったそこで、
「オーガスト……ッ」
 千景の、絞り出すような声が耳に入り込んできた。
 どく、と心臓が大きな音を立てる。
 根を張ったように足が動かなくて、至は瞬きさえもできなかった。
(オーガスト……八月? 違う、人……の、名前……?)
 八月を表す単語だが、至はそうじゃないと直感で悟ってしまう。恐らく、あの紙切れ――写真に写っている人間の名前なのだろうと。いや、もしかしたらペットの名前かもしれない。
 どちらにしろ、千景にとってとても重要な相手なのだと分かってしまった。
 ドクドクと音を立てていた心臓に、ズキズキという痛みが加わる。
(なんで……痛いんだ、今シャワーしたばっかりなのに、なんで寒いんだよ……あ、湯冷めか。そう、だよな)
 至はどうにか千景から目を逸らし、息を吐くことに成功した。ようやく、体にかかっていた呪縛が解けたような気がした。
「先輩」
 いつもの笑顔の仮面を被って声をかければ、千景はハッとして顔を上げ、珍しく慌てた様子で携帯端末と写真をしまい込んだ。
「おい、せめてタオルを巻いてくるとかしたらどうだ」
 呆れた様子で眼鏡をかけ直しながら、至の格好を言及した。上から下まで眺めておいて何を言っているのかと、至は肩を竦めた。
「いいでしょ、どうせ脱ぐんですから」
「それはそうだけどな。お前はもう少し恥じらいってものを覚えるといい」
「今さら。先輩が、そういうのお好みならやってみせますけど? これでも劇団員なんでね」
「ああ……そうだったっけ。別に、今さら初心な反応は期待してないからいいけどね」
 そうだったっけ、なんて言葉に、心臓が痛みを増した。この男は本当に茅ヶ崎至という男に興味がないのだと。
(いや、分かってるけどさぁ……セフレとはいえ、もう少しくらい、俺のこと見てくれてもいいのに……)
 千景の態度は、初めての頃から少しも変わっていない。
 セックスのテクニックは申し分ないし、たまには至の体力を配慮してくれることもあるけれど、優しいキスとは無縁だった。熱いキスなんてもらったこともない。情のこもったキスなんて、至は知らない。
「じゃあ、俺もシャワーしてくるから。良い子で待ってろ」
 千景はネクタイを外しながら立ち上がって、至とすれ違いぽんと頭を叩いていく。触れられたそこから心臓へとビリッと電流が走ったように、ひどく痛んだ。
「ねえ先輩、俺が相手でいいんですか?」
「え?」
 泣き出したいほど喉が痛い。何かが詰まっている感覚さえあるのに、余計な言葉が出てきそうで、恐ろしい。
 不思議そうに振り返った千景に、無理やり口の端を上げて笑ってみせた。
「オーガスト」
 それを呟いた瞬間、千景の表情が一変する。
 呆れに似た穏やかさは吹き飛んで、先ほどの苦痛さの混じるものでもなく、驚愕と失望の入り交じる瞳が至を射貫いてきた。
「先輩、海外出張多いですよね。……向こうの、恋人、ですか?」
 先ほど慌ててポケットにしまい込んだ端末と紙切れは、相当大切なものなのだろう。他人どころか、何にも興味がなさそうな彼が、あんな悲痛な声を上げる。その意味に気づかないほど疎くはない。
 何しろ千景は、至が初めての相手というわけではなさそうだったからだ。至の方は千景が初めてだというのに、彼は最初から慣れた手つきで、体をずっと奥まで暴いてくれた。
 他にも誰か、そういう相手がいるのだと思うのが、当然の流れだ。
 別に構わない。自分たちは恋人同士ではないのだし、特定の相手がいようと、責める立場にはない。
 分かっているのに。
「俺、日本(こっち)での遊び相手ですよね。大丈夫ですか? ちゃんと代わりになってます?」
 千景に、大切な人がいる――それを考えるだけで、張り裂けそうなほど胸が痛む。
 どんな人なのか、相手もちゃんと千景を好いてくれているのか、どんなふうに千景を抱きしめるのか、千景はどんなふうにその人を抱きしめるのか、どんな瞳でその人を――。
 そこまで思った時、千景の指先が喉元に触れた。
 冷えた指先に、びくりと肩が揺れる。見たこともない鋭い瞳に、背筋が震える。
「茅ヶ崎。二度とそれを人の名として口にするな。死にたいのか」
 踏み込んではいけない部分だったのだと、今さら気がつく。
 いや、最初から分かっていた気がするのに、どうしても知りたかった。千景にあんな顔をさせるものの正体を。
「…………すみません、立ち入ったこと訊いて」
 逃げ出したい。泣き出したい。
 千景にとって、〝オーガスト〟という人は、本当に大切な相手なのだ。〝大切〟だなんて言葉では表しきれないほどに、かけがえのない存在なのだ。他人が名を口にすることも許せないほど、愛しい存在に違いない。
 気がついてしまった。
「……そういう意味で言ったんじゃない。別に茅ヶ崎を代わりにしてるつもりもなかった」
「いいですよ、ただのセフレに、気なんか遣わなくても。そういう気分じゃなくなったなら、今日は帰りますし」
「いいから、いろ。ベッドで、ちゃんと待ってて」
 千景の指が、喉を離れて唇を撫でてくる。そうしてバスルームへと向かっていった。
 ちゃんと待っててという言葉が、本当に寂しそうで、至は頷くほかになく、少し冷えた体をブランケットに包んでベッドに横たわる。
 気がついてしまった。
「…………好き、なのか……」
 千景のことが、好きなのだと。
 千景の心の中にいる〝オーガスト〟に、嫉妬してしまったのだと。
 ただ体を繫げるだけの間柄である自分では、千景の心の中に入り込めない。好きなのだと気がついても、言葉にできない。音にならない。玉砕することが分かっていながら告げる勇気なんか、自分にはない。
(気づいた瞬間に失恋とか、どこの少女漫画だよ……まるで絶望的な想いじゃないか)
 面倒だからと、触れてくれなくなるかもしれない。そう思うと、この気持ちは墓場まで持っていくしかないのだ。
 胸が痛くて、くるまったブランケットをぎゅっと握りしめた。
 あんなふうに、祈るように名を呼ばれる人が羨ましい。
 今はどこにいるのか、どうして千景の傍にいられないのか、どうしてあんな顔をさせるのか、いつか逢えたら訊いてみたい。
 そうして、お願いしてみよう。
 どうか、あの人をひとりにしないでほしいと。
 どうか。
「……オーガスト……」
 二度と口にするなと言われた夜に、誰にも聞こえないように、ひっそりと、祈るように、もう一度だけ呟いた。




 いつからか分からない。覚えていない。
 千景は少し眉間にしわを刻みながら、ぐ、と腰を押し進めた。
「んぅっ……」
 組み敷いた男の表情を観察して、唇を引き結ぶ。
(……やっぱり)
「はあっ……あ、あ」
 ゆっくりと腰を引くと、中が引き留めるように絡みついてくる。
 体の反応は、以前と変わっていない。むしろ回を重ねるごとに、感度は良くなってきているのに。
(なんでだろう、この顔)
「せん、ぱい……っ」
 彼の――茅ヶ崎至の表情に、苦痛が混じるようになっている。そんなふうに感じるのは、気のせいだろうか。
 いや、気のせいではないと思う。
 唇を引き結ぶことも、歯を食いしばって声を我慢しているようなこともある。顔を背け、時には腕で覆ってしまうこともある。
 以前は、そんなことなかったと思うのだが、どうしてここ最近、そんな仕種をするのか。
「茅ヶ崎、痛い?」
 そう訊ねれば、ふるふると首を振る。体の反応を見てもそれは噓ではないようで、どうしてもその表情だけが、この空間にミスマッチ。
(別にいいけど……欲さえ処理できれば。距離感をわきまえてる相手ってだけだし、茅ヶ崎は)
 別に、彼は恋人というわけではない。気分が乗ったときに体を重ねる、いわゆるセックスフレンドという間柄だ。
 誘いを受けられたときは驚いたけれど、相性はよかったようで、ここまで数か月、続いている。
 続いているというのがもう、千景には珍しいことだったのだが、それだけ都合のいい相手を見つけられたというだけだ。
 先日、〝彼〟の名を口にされた時には、どうしようかと思ったが、命を奪うほどではないと判断した。少し監視するだけでいい。二度と口にするなと言っておいたが、至はもうすでに覚えてもいないだろう。
 その方がいい。あの音を人の名として口にすれば、至の身に危険が及びかねない。どこで誰が聞いているか分からないのに。
 そういえば、と千景は思い起こす。
 至の態度が少し変わったのは、あの日以降だったような気がすると。
 今も自分の下で声を抑えている至を見下ろして、どうしてか苛立って、口許を覆う腕を取ってベッドに押さえつけた。
「やっ……あ、あ、いや、先輩もう放してっ、いやだ、おねが……」
 力で敵うわけなどないと分かっているだろうに、押さえつける腕を外そうと試みる至を、たぶん珍しく、強引に抱き潰した。



「明日稽古あるから……あんまり激しいのやだったんですけど……」
 ぐったりと手足をベッドに投げ出して、至がそう呟く。
 そういえば彼は劇団に入っているのだったっけと、千景はその言葉で思い出した。
 会社での猫被りはそこで培ったのか、それとも猫被りの技をもっと磨きたかったのか。それは分からないが、ベッドでの乱れっぷり以外にも、至には隠している顔があるのだろうなと思う。
 千景自身、隠している顔があるせいか、至のそういう部分には好感というか、共感を持っていた。
「なんだ、それならそうと、早く言えばいいのに。手加減してやったぞ?」
「……別に、いいですよ……稽古っていっても、俺の組は公演まだですし……発声とか体力作りとか、エチュードばっかりだし」
 濡れたタオルで至の体を拭いてやりながら、ふぅんと適当に相づちを打つ。
 こんなふうに甲斐甲斐しく世話をしてやるのも、千景には初めての相手だ。いつもは一夜限り、コトが終わればすぐに別れていた。
 だけど至は、職場での後輩だ、あまり無体なこともできないし、あとが面倒くさい。
「組って、いくつかあるのか?」
「春夏秋冬、四つ組に分かれてるんです。俺は春組。もうすぐ冬組の公演があるんですよ。だから稽古は必然的に彼らが優先」
「なるほど……結構な大所帯だな」
「それなりに楽しいですよ。あ、先輩も興味あれば観にきてみます?」
「遠慮しとく」
「……ですよね~」
 残念そうにぽすんと枕に顔を埋めた瞬間、無粋なコール音が響いた。至の携帯端末だ。
 こういう時くらいマナーモードにしておけと、ベッドをまさぐって端末を手渡してやる。
 ちらりと見えた画面には、〝月岡紬〟との表示。悪気はないが、自分の癖かもしれないとは思う。情報はあって過ぎることはない。茅ヶ崎至についての情報は、思ったより少ないのだ。
 友人か、それとも件の劇団の仲間なのか、至は千景から端末を受け取ると、ほんの少し柔らかな表情になった。
(親しい相手か。俺には見せないな……)
 千景はほんの少し、眉間のしわを深くする。友人と、ただのセフレに対する表情など、違いがあって何の不思議もないというのに、イライラしてしまう。
 後ろめたい相手ではないようで、至はそのまま通話を始めてしまった。
「紬? どうしたの、珍しいね。稽古中じゃないの?」
 稽古中という単語で、劇団の仲間なのだと分かる。別に聞いて有益なことはないだろうと思い、千景は立ち上がってバスルームへ向かいかけた。
「え? うん、まだ外だけど……は、マシュマロ?」
(――え?)
 杭でも打たれたかのように、足が動かなくなった。
 マシュマロという菓子は、千景にとって……いや、エイプリルにとって、切り離し難いものだ。
 珍しい菓子でもないのに、過敏に反応しすぎだと、未熟さを嘆いて、息を吐いた。いちいちそんなものに反応していては、いつか足下をすくわれる。
(あの裏切り者のせいで、こっちの身だって危なかったんだ! どこにいても、見つけ出してやる)
 殺したいほど、憎い相手がいる。
 大切な人を裏切って、逃げ延びた男。
 いや、生きているのかいないのか、それさえも分からない。〝彼〟が死んだときの状況を聞けば、生きている確率は低いとは思うのだが、生きていてほしい。
(生きていろ、ディセンバー。俺が、この手でッ……!)
 この手で、〝彼〟の敵を討つ。そう決めて、今を生きている。
 あの男が好きだったマシュマロという菓子に、過敏に反応してしまうのは、そのせいだ。
「俺もうしばらく帰れないよ。うん、ちょっと、残業。ハハッ、万里でもパシらせれば? アイツ何だかんだで面倒見いいし。これでいいっしょ、なんつってちょっと高めのマシュマロ買ってくるんじゃない? 密、喜ぶよ。うん、ごめん手伝えなくて。じゃあ」
(――な、に……?)
 千景は目を大きく見開いた。至が発した言葉の中に、聞きたかった、聞きたくもない名前が含まれていたことに。
(ひそか……密!? な、ど、どうして……馬鹿な、そんな、まさか……!)
 あの男が彼につけてもらった日本名は、〝御影密〟。
 ドクンドクンと心臓が波打つようだ。どうして至が、その名を口にするのか。しかも、マシュマロというアイテムを伴って。
 千景が探している人物に合致する符号が、ふたつ、同時に、そこにある。
 千景はその場で少し振り返って、震えそうな声をどうにか我慢して、口にしてみた。
「……マシュマロ?」
「え? ああ……劇団に、すごくマシュマロ好きなヤツがいるんですよ。どこでも寝ちゃうんで、マシュマロで起こすっていうのが定石で。どうもそのストックが切れそうだっていうんで、お遣い頼まれたんですけど」
 こんな状態じゃね、と至は笑う。
 残業だなんて噓をついて、男とベッドを共にしていたなんて、劇団の仲間には言えないだろう。
 だが千景は、至のそんな自嘲に付き合っている場合ではなかった。そうだなと適当に返し、バスルームへと逃げ込んだ。
 ガンガンと頭が痛む。
(アイツだ……ディセンバー……! やっぱり、生きて)
 探していた、殺したいほど憎い相手が、まさかこんなに近くにいたなんて。日本には、灯台下暗しという言葉があるらしいが、正にその状態である。
 千景はシャワーのコックを上げ、頭から水を被った。
(劇団……、劇団員だと!? そこがお前の隠れ蓑か! 盲点だった、顔を出すようなところなんて、見つけてくれと言ってるようなもんだと、除外していた!)
 ダン、とバスルームの壁を叩く。水滴がちりぢりになって飛んだ。
 ぎゅう、と強く拳を握りしめる。ぎり、と歯を食いしばる。
「は……はは、もうすぐだ、オーガスト……やっとお前の敵を討てる……! 待っていてくれ、もうすぐ……!」
 降ってくる冷水の下で、千景は両手で顔を覆った。



 汗を流し、今すぐにでもここを飛び出して、復讐をしに行きたい衝動をどうにか収めて、部屋に戻ってみれば、至が無防備な寝顔をさらしていた。
 警戒心も何もない顔だ。千景にはそれが腹立たしくて、目を細めて見下ろす。
(ディセンバー、なぜこんなヤツと一緒にいるんだ? まったくの平凡な民間人じゃないか!)
 身を隠すなら、それなりの機関だと思っていた。
 財力、コネクション、技術、何かしらに特化したところでないと、自身が危うくなる。それなのにどうして、他人の傍ですやすやと眠れてしまうような、そんな馬鹿がいる劇団にいるのだろう。
(……いや、まだディセンバーだと決めつけるわけには……)
 確かめなければならない。
 密という名と、好物のマシュマロが結びついた時点で、千景の中では確信に変わっている。
 だが、万が一にも別人だったとしたら、計画を立てても無駄になる。
「……」
 千景は、眠る至の傍にあった携帯端末を手に取った。少なからず濃密な時間を共にしていれば、彼が端末に触っているところを目にする機会はある。ロック解除のパターンを見る機会もだ。
 頻繁にパターンを変えるような、マメな男ではないらしく、記憶していたパターンですぐにロックは解除された。
 こんなところも、警戒が皆無で腹立たしい。密のことを知っていて匿っているのではないのかと、端末のアプリを確認していく。
 いちばん分かりやすいのは、SNSやメッセージツールだ。アルバムには、シークレットフォルダ。これに何かあるのかと思いきや、ゲーム画面のスクリーンショットばかり。
(ゲーム好きなのか……会社じゃ、そんな素振り見せてないのに)
 会社で見る茅ヶ崎至は、どこか噓くさいと感じていた。彼の真実がどこにあるのか――それが気になって声をかけたというのもある。
 ベッドの中での乱れ方も、確かに隠したい真実だっただろうが、もしや隠していたのはこちらの方なのかと、千景はほんの少しつまらない気分を味わう。
 SNSの方は劇団の宣伝が多い。ここに何かないかと思ってみたが、証拠になりそうな写真はない。LIMEも、それらしきものがない。
(冬組とか言ってたな……できたばかりなのか、交流がそれほどないのか……)
 ともかく、今の状態からでは彼の言う密と、こちらが探している人物が同一なのかどうか、確証がない。
 仕方なく、千景は端末にアプリを仕込んだ。合法なものではない。主に盗撮や盗聴、追跡などといったピープ機能を盛り込んだもの。
 映像が撮れればいいのだが、交流が少なそうなところを見るに、難しいかもしれない。
 しかし劇団内で〝密〟との接触があれば、声が聞こえる。機械を通しても、声は分かる。組織の任務で、散々通信機越しの声を聞いてきた。
 千景はアプリの動作確認をして、至の手元に戻す。表からでは分からない。
(思わぬ収穫だったな、コイツは)
 何も知らないで寝息を立てる至を眺め、千景は眼鏡を押し上げる。
 体の相性はわりといい方だと思う。そもそも一夜限りばかりだった自分が、関係を続けること自体が珍しかったのだが、それはきっとこの瞬間のためだったのだと、口の端を上げる。
 密との接点を連れてきてもらった。密の現状を知らせてもらえる。性欲処理云々の前に、至には感謝しなくてはならない。
 関係が続いている以上、至の方も好感は持ってくれているのだろうし、何より職場の後輩だ。優しくしてやらねばと、指の背で至の頬を撫でた。
「利用させてもらうぞ、茅ヶ崎……」
 この手に捕まったのが、お前の運の尽きだとでも言わんばかりに、千景はそう呟いた。






「え? 公演のチケットですか?」
「うん、まだあったら一枚欲しいんだけど」
 仕事が終わってから、ディナーをおごってくれるという千景と車に乗り込んですぐ、そう訊ねられた。
 今チケットを販売している公演といえば、冬組の第二回公演。有栖川誉主演のものだ。
「本当なら、茅ヶ崎が準主演だっけ? その時に観てみたかったんだけど、生憎ずっと海外行ってただろ」
「ああ、そうでしたね。良かったですよ、観られなくて。なんか恥ずかしいんで」
 千景の言う通り、至が準主演を務めた公演の期間は、彼はずっと海外出張だった。
 当然逢えなかったが、たまに連絡は取り合っていたし、土産にと、現地限定販売のネクタイを買ってきてくれたことを思い出す。
「えぇ? 恥ずかしいってなんで。たくさんの観客の前で演じるんだろう?」
「そうですけど、知ってる人がいると思うと恥ずかしいですよ。始まればそんなこと考えてる余裕ないですけど」
「ふぅん。じゃあ次は是非春組の公演も観よう」
「ちょっとヤメテ」
 千景は楽しそうにくすくすと笑う。千景が公演を観に来るほど興味があったとは思えないが、まだチケットは都合がつけられるはずだ。観客が多いに越したことはない。
「じゃあ、一枚取っておきますね」
「ああ、ありがとう」
「ところで、何でもいいんですか? ご飯」
「いいよ。茅ヶ崎が食べたいもので」
 分かりました、と至は近くの店を頭の中で思い描いた。
 正直言って、グルメな方ではない。外食をするならば、その分の金をゲームに課金したいと思う方なのだ。
 おかげで、はやりの店や口コミで評判の店など、少しも分からない。
「イタリアンかな。何かよさげなとこ、探してもらえません?」
「了解。ピザとか好き?」
「好きです」
 言ってから、ハッとして顔を背けた。きっと赤くなっているはずだが、千景には気づかれていないといい。
 千景に向かって〝好きです〟と言ってしまったように感じられて、ひどく照れくさい。そんな言葉、絶対に言えやしないのに。
 彼には、大切な人がいる。
 至には触れさせてもらえない世界の中に、大事にしまい込まれたものがある。
 どうにも複雑な事情がありそうで、訊いてはいけない気がするのだ。
(オーガストさんのことはともかく、俺がディセンバーって名前も知ってるのは、先輩覚えてないわけだし……知らないふり、していたい……)
 オーガストの名を口にするなと言われたこともある。千景にとってその話題はタブーなのだ。裏切ったらしいディセンバーの名は、もっと聞きたくないだろう。
 千景が傷つくからという建前で、訊くだけの勇気がない自分をけむに巻く。千景がどれだけその人を大事に思っているのか知ることで、自分が傷つきたくないだけだ。
「茅ヶ崎、次の信号右に曲がって。その近くにパーキングあるから、停めて少し歩こう」
「了解です」
 千景の言っていたパーキングに車を停め、シートベルトを外しかける千景に向かって、思い切って訊ねてみた。
「先輩、今日はホテルありですか?」
「え?」
「最近、行ってないなあって思って。時間があるなら、その……」
 行きたい、と小さく呟く。
 ベッドの中での乱れっぷりは、もう嫌というほど知られていて、今さら純情ぶるつもりはないのだが、どうしても恥ずかしい上に、後ろめたい。
「もしかして、まだ……あのこと気にしてます?」
 千景のタブーに触れた夜、手ひどく犯された。拘束されて、ろくに慣らさずに突き立てられた。だけど千景はそのことを覚えていないようで、その時ついた手首の痕をすごく気にしていたのだ。
「先輩、あの時から俺のこと抱く回数減りましたよね。気にしてるなら、それはやめてほしいです」
「茅ヶ崎……」
「大体、俺が責めてもないのに、償いみたいなことされるの嫌ですよ」
 覚えていないのなら、そのままでいいと言ったはずなのに、腫れ物に触るように接されるのは気にくわない。至は俯いて唇を噛んだ。
「他に、相手ができたのなら……言ってください。いくらセフレでも、二股とか気分のいいもんじゃないですし」
「茅ヶ崎」
 シートベルトを外した千景が、まだそのままだった至の方に身を寄せてくれる。
 頬にそっと口づけ、驚いて振り向く暇もなく、そのまま唇にキスをされた。
「他の相手なんて、できてない」
 唇のすぐ傍でそう囁き、千景は再度唇を合わせてきた。これは今日のことを期待してもいいのだろうかと、目を閉じて薄く唇を開く。
 ぬらりと入り込んできた千景の舌を受け入れれば、口の中で互いの舌が絡んでいく。シートベルトに押さえられた体は、あの時の感覚と少し似ていて、だけど千景の唇はあの時とは違ってとても優しい。
 上顎をなぞられ、そんなところでも感じるようになってしまった至は、ぴくりと肩を揺らす。千景の指先がネクタイのノットにかかり、緩められていく。喉元のボタンが外されて、指先が入り込んできた。
「あ、……っふ、んぅ」
 ちゅ、ちゅ、と水音を立てながら合わさっていく唇と、乾いた肌を滑っていく指先。ドキンドキンと鳴る心音に気づかれたくなくて、ごまかすように千景の舌を必死に愛撫した。
「んっ、ん……ぁ」
「茅ヶ崎、お腹空いてる……?」
「え、いえ……それほど……」
「悪い、ご飯はまた今度でいいかな。抱きたくなった」
 シャツ越しに、千景の手のひらが胸を撫でてくる。欲情されているのだと知って、カアッと頬が赤くなった。
 自分から誘ってしまったようなもので、ひどく浅ましく感じる。
 だがここで逃してしまったら、次はいつ関係を持てるのか分からない。至は了承を示すつもりで、千景の首筋に唇を寄せて軽く吸い上げた。



「あ……っ」
 ぺろ、と胸で硬くしこる乳首を舐められて、背がしなった。頻度が減っていたせいか、些細な愛撫にも敏感に反応してしまう。
「んん」
 千景は舐めた乳首をそのまま口に含んで、ちゅうちゅうと吸う。もう片方を指先で遊ばれて、断続的に声が上がった。
「あっ、あ、あ……んぅ」
 軽く歯を立てられ、びく、と腰が沈む。それに気を良くしたのか、よりいっそう執拗に責め立てられた。
「先輩、あの、そこばっか」
「……ん? いやか?」
「いやじゃないですけど、その……何ていうか」
「あぁ……なるほど、じれったいってことかな」
「そんなこと言ってないでしょう」
「言ってるよ、お前の体がね」
「あっ、待っ……」
 千景の愛撫に体が疼く。熱が集中しているのは自覚していて、触れてほしかったのも本音だが、言われると反論したくなるのは何故だろう。
 だがしかし、千景はそんな反論ものともしない。触れた体の欲望なんか、お見通しだとでも言わんばかりに、体のラインを撫でてそこに到達してしまった。
「あ……っう、ああっ」
 指先が先端をえぐる。形を確かめるようにうごめく手のひらが、至の体液で濡れていくのが分かる。
 何度も経験してきたことなのに、それがすごく恥ずかしくて、余計に敏感になった。
「せん、ぱい、ごめ……なさ、ちょっと、待っ、イキそ……」
「早いって」
「だから、謝って、るで、しょ、いやならっ、放してくださ……」
「いいから、イッて、茅ヶ崎。体のしたいようにしてればいい」
 耳元でそう優しく囁かれる。久しぶりだったせいもあるのか、至はあっけなく達してしまった。
「は、はあっ、はぁ……っは、あ」
「大丈夫か?」
「は、い……すみません……」
「謝ることないだろ。茅ヶ崎がこんなにいやらしいの知ってて、あんまり抱いてやれなかった俺にも、責任はあるしね」
「なっ……」
 そんなことを言って笑い、千景は至の体液で濡れた手首を舐めた。恥ずかしくて何も返せずにいたら、千景はベッドの上に転がっていた至の手首に唇を寄せ、そっと口づけてくる。
「ちょっと、加減できそうにないんだけど、茅ヶ崎。本当に、平気か?」
 気まずそうなその顔を見て、至はぱちぱちと目を瞬く。あれから一体、何か月経っていると思っているのか。手首へのキスで、やはりまだ気にしていたのだと分かり、ふっと笑ってみせた。
「先輩があのこと気にして、まだヘコんでんの見るのは楽しいですけど。俺はそれより、イカせてほしいですよ」
「……分かった」
 千景はそう呟くと、至の手を誘導し、自身の指と一緒に入り込ませる。ヒクンと喉の奥で声が詰まったような感覚に、至はのけぞった。
「あっ……ぁ、んっ、あふ、う……んむ」
 二人分の指で押し広げ、ほぐす中で、千景はむさぼるようなキスをくれる。キスに集中すれば、指がお留守だと言わんばかりに奥へ連れていかれて、指に集中すれば上の口も頑張ってと吸い上げられる。
 酸欠も手伝って意識が朦朧とし始めた頃、ずるりと指が引き抜かれていった。
「お疲れ、もうひと頑張りかな」
「やぁっ……ア」
 ぐ、と猛る雄が入り込んでくる。ほぐしたといっても久しぶりの行為で、圧迫感に苛まれる。それなのに、千景は構うこともせずにぐいぐいと押し入ってきて、じんじんとそこが疼いた。
「あ……や、やだ、先輩、も、……っと、あっ、そこ、いや……っ」
「いや? しばらく抱かないうちにイイところ変わっちゃった……っ?」
「やっ、駄目待って、いや、ああっ」
「噓つきだな茅ヶ崎は。すごく気持ちよさそう……いやらしい顔して」
「ひぅ、あ」
 ぐ、ぐ、と押し入ってきたかと思えば、引き抜いて至のいちばん良いところを突く。足の先まで電流が走ったような感覚に襲われて、シーツを掻いた。
「あ、はあっ、は……あぅ、先輩、先輩……っ」
「茅ヶ崎、中……すごい、そんなに食らいつかれると、俺も、すぐ、いきそう、なんだけどっ……」
「イッ……て、先輩、イカせたい、ね、中……もっと、強くしても、いいから……っ」
 肌がぶつかる音がする。ベッドが啼いてきしむ。
 吐息が重なって、手のひらが重なって、唇を重ねて二人で達した。
「なあ……後ろからしても平気か? あの時、たぶん……しただろ」
「え?」
「今度は、優しくするから」
 答える前に、体を裏返して腰を持ち上げられた。
 確かにあの日、後ろから貫かれた。顔を見る勇気もなくて、枕に顔を埋めて耐えていたけれど、千景は今、優しくしてくれるという。記憶を上書きしてほしいという祈りでもあるのか、ずっと手首を撫でてくれている。至はシーツに額をこすりつけたままで、頷いた。
 あの日からも何度か体を重ねたが、千景は遠慮がちだったし、一度だけで終わっていた。
 その千景の重みを、背中に感じる。熱を、体の中で感じる。
 荒れた吐息が、強く抱かれる腰が、肩に落ちる汗で湿った髪が、至の中を満たしていった。



2018/10/07
【装丁】A5表紙FC/90P/900円/R18
【書店】とらのあな様
【あらすじ】
セフレだった千景と至。ある夜、「オーガスト」という名を呟いているところを目撃し、至は自分の気持ちを自覚する。千景はオーガストの敵であるディセンバーを探している最中、至が彼を知っていることに気づき、復讐のために利用しようとするけれど――。
  
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