華家



103号室の夜


 気分が沈む。
 至は、ため息をついて一〇三号室のドアノブに手をかけた。

「おかえり」

 ルームメイトである千景の声が聞こえて、ハッと顔を上げる。そういえば今日彼は休日出勤の代休を取っていたのだっけと、小さくただいまを返した。
 鞄をそこら辺に放り出して、ジャケットを脱ぎ捨て、ネクタイを緩め、ソファにどかりと腰を下ろす。その衝撃で、先に腰をかけていた千景の体が揺れた。

「随分ご機嫌斜めだな」
「放っといてください」
「分かった」
 低い声で返すと、千景は何でもないように了承してしまう。放っておいてと言ったのは自分の方なのに、そう簡単に了承されてしまうのも気にくわない。

 何しろ彼とは恋人同士という間柄なのだ。

 何があったのか、だとか。
 何か欲しいものはないか、だとか。
 そういった思いやる心はないのだろうかと、理不尽なわがままが押し寄せる。

 別に、仕事でミスをしたわけではなかった。ただほんの少し、上手くいかなかっただけだ。予算がどうとか訴求がどうとか、なかなか思い描く理想のようにはいかないもので。
 至は、放っておいてと言ったにも関わらず、タブレット端末を優しく撫でる千景の肩にもたれかかった。
「先輩」
「うん?」
「俺も撫でて」
「一回五〇〇円」
「ヒドすぎワロタ」
 なぜ恋人に撫でてもらうのに金銭が必要なのか。タブレットを滑る千景の手は一瞬止まったように見えたけど、またすぐに動き出す。ご機嫌斜めの恋人よりも、タブレットの方が大切らしい。凹凸もなく面白みのないボディの方が。

「……先輩」
「なに」
「俺のこと甘やかしてください」

 また金銭を要求されるかなとも思った。今度は金額が上がるかもしれないと。だけど千景は、ややあってため息をつく。
「俺は普段からお前を甘やかしてると思うけど。過ぎるほどに」
「マジでか。どこらへんがです?」
「アラーム止めて二度寝しようとしてるのを起こしてやったり、シャツをクリーニングに持ってってやったりかな」
 ぐ、と言葉に詰まる。それは確かに事実で、甘えてしまっている。しかしそれは恋人らしい甘やかし方かと問われたら、イエスだろうか、ノーだろうか。

「そういうのじゃなくて……」
「仕事、上手くいかなかったの?」
 千景がようやくタブレットをテーブルに置いて、ソファの背もたれに身を預け直す。おいでと言われているようだと都合良く解釈して、至は千景の胸に頬をすり寄せた。
「今になって思うと、先輩がいないから、やる気出なかったのかも。あ~……先輩充」
 ぐりぐりと額をこすりつけ、千景の体温とかすかな匂いを吸い込んで、疲れた体を癒やし、満たす。
「ただの代休でそんなふうになってて、長期出張とかどうするんだ」
「フォローお願いします」
「担当違うだろ、もう……仕方ないな」

 千景はそう言って笑い、髪を撫でてくれる。指先が耳をくすぐり、そのまま顎を持ち上げられた。
 降りてくる千景の唇。至は目を閉じて、甘やかされた。

「ん……」
 触れるだけだったそれはだんだんと深くなり、唇が湿っていく。腰を抱く腕の力が強くなり、掴んだシャツのしわが深くなった。
「んっ……ち、千景さん、駄目でしょ……ここ寮ですよ……」
「甘やかしてるだけだけど?」
「いやもう手がエロい。エッチなキスしないでください」
「じゃあ可愛いことして欲情させるなよ」
「理不尽」
「どっちが」

 恋人同士であっても、寮内ではそういうことはしないという暗黙のルールがあった。壁が厚いわけではないし、寮には未成年もいる。数名にはバレていそうだけれど、この一〇三号室でコトに及ぶつもりはなかった。
 なかったけれど。

「今日一日、代休でゆっくりできたけど……茅ヶ崎がいなくて寂しかったんだから。俺のこと甘やかせ、茅ヶ崎」
「もしかしてずっと部屋にいたんですか。引きこもり」
「ここがいちばん茅ヶ崎のにおいする」
 シャツを引き出されて、手のひらが素肌の背中を撫でる。くすぐったくて身をよじれば、それを利用してソファに押し倒された。
「疲れてるみたいだから、触れないようにしてたんだけどな」
 素っ気なかったのはそのせいかと、至は安堵して笑った。疲れているのは頭の方で、心でも体でもない。
「分かりづらい愛情表現やめてくださいよ」
「じゃあ、分かりやすい愛情表現に切り替えようか」
「よろ」
 至は千景に向かって両手を伸ばす。彼の眼鏡をそっと外して、テーブルへ放り投げた。おい、と怒る千景を両腕で抱き寄せて、唇を塞いでやる。応えて深くなるキスで、今夜の一〇三号室はお互いがお互いを甘やかし倒すことになった。


2018/10/03
103号室の日に
  
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