華家



触れたい背中

 最初に気になったのは、背中だった。

「あ、卯木先輩だ」
「ホントだ。あの人格好いいよなぁ。まだ話したことないけど、すっげぇ優しそう」

 隣を歩く同期たちが、口々にそう呟く。至は適当に相づちを打ちながら、その人の名前を思い出した。

(えっと、確か……うつき、ちかげ。そうだ、卯木千景。何その名前。ちょっとアガる)

 入社して数か月。そろそろ仕事の流れを覚えて、取引先にも数社紹介をされて、担当の先輩につきながらなんとかやり過ごす日々だ。
 話題にされている卯木千景とは、直接話したこともない。彼は海外の取引先を主担当にしているようで、至にはまだ経験させてもらえないところだ。
 特徴的な色の髪をしているから、後ろ姿でもよく分かる。すらりとした長身に、まるでオーダーもののように合ったスリーピース・スーツ。

 視線の先で、彼が他の同僚に呼び止められる。急ぎの資料を確認してもらいたかったのだろうか、その手には数枚のプリント。彼は嫌そうな素振りも見せずに受け取って、パラパラとめくる。そして、もう一度。指摘事項はないのか、彼は笑って資料を返す。二言三言交わせば、同僚はホッとした様子で軽く頭を下げ、慌ただしく走っていった。

「あぁ~ほら、見たか今の。フォローもうまいんだろうな」
「ああいう先輩いると心強いよな。よくやったななんて笑顔で言われたら、疲れも吹っ飛ぶわ」

 同期たちは小さくそう囁き合うも、至にはどうも腑に落ちなかった。
 確かに、仕事はデキそうな先輩だ。同僚たちのフォローもする上に、顔が整っているのも手伝って、評判はいいのだろう。実際、今ちらりと見えた笑顔には、ほんの少し胸が鳴った。
 だけどどうしてか、好きになれない。
 自分が何かされたというわけでもないのに、経験や担当業務上、今後も深く関わることはないのだろうけど、と思いつつ、至の脳裏には、彼の背中だけが焼きついていた。


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 それが、どうしてこんなことになっているのだろう。

「ん、あ……」
「こら、締めるな茅ヶ崎。もう少し、奥……」
「あ、だ、だって先輩がっ……やだ、い、いい……っ」

 ホテルのベッドが、二人分の重みでぎしりぎしりと悲鳴を上げる。至は男に――卯木千景に組み敷かれ、甘ったるい悲鳴を上げる。

「だいぶ、慣れたな……ここ、気持ちよさそうだ」
「先輩、それ、エロ……あっ、だめ待って、ごめんなさ、やだ」

 もっと奥に欲しいのに、千景は意地悪をして腰を引いてしまう。ふるふると首を振り、自分から腰を押しつけて、引き留めた。それに満足してか、千景は再度奥まで突き戻してくれる。安堵して、至は千景の下で何度も絶頂を迎えた。

 最初のきっかけが何だったか、他人に言ってもきっと分かってもらえない。
 確か珍しく参加した会社の飲み会で、席が隣になってしまったことがあった。思えばその時、初めて言葉を交わした。
 茅ヶ崎至です、初めまして。卯木千景です、よろしく。
 なんて、とても同じ会社の同じフロアにいるとは思えない挨拶。やっぱり、貼り付けたような笑顔を好きにはなれなくて、当たり障りのない会話をしていた気がするのに。一次会で帰る、と店の前でみんなと別れ、至が目にしたものは、千景の背中。彼もまたひとりで帰るつもりなのだと知って、なぜかその背中に手を伸ばしていた。だけど触れる前に、千景に手を取られた。

 始まりは、それ。



「もう帰るんですか、先輩」

 何度かの絶頂を迎えて、至は布団にくるまりながら千景に声をかける。千景は終わって一息つくと、いつも背を向ける。今日も例に漏れず、起き上がってベッドの下に足を下ろし、「ああ」と至に答えた。
 千景とはこうして何度か肌を合わせているが、決して恋人同士ではない。いわゆるセフレというヤツで、褒められた関係ではなかった。

 恋をしてしまったのは、至の方だけだ。
 いつの間にか、身も心も千景に奪われて、捕らわれてしまっている。

 もぞ、と布団から腕を出し、千景の背に伸ばす。だけど触れる勇気が出ずに、そっと戻した。
 あの背中には、触れられない。
 貼り付けたような笑顔より、他人を寄せ付けないあの背中の方が、千景の真実だ。そう感じているからこそ、触れられない。
 千景のことが苦手だったのは、笑顔で平然と人を騙すからだ。騙すとは言っても、悪い方向にではない。仮面を被っていると表現した方が、正しいと思う。
 誰にでも優しくして、誰からも好かれているのに、何も受け入れられていない千景の寂しさを、こんな関係になって初めて感じた。

 何も必要ない。そう言われているようで、至には触れられない。

 こんなに近くにあるのに、届きそうで、少しも手が届かない。

(先輩に、俺は必要とされてない……これだって、ただの性欲処理だろうし)

 つい数分前まで、情熱的に体を重ねていた相手を放って、千景はバスルームに向かってしまった。
 至はベッドの上で、布団を巻き込んで丸くなる。ぐぎゅう、と締めつけられて痛む心臓を、ごまかすために。

(しんどい、やめたい、なんであんな人好きになったの)

 涙までにじんでくる。体を?げている間は平気なのに、こんなふうに取り残されると、途端に気分が沈んでしまう。
 あの背中に触れたい。あのひとの真実に触れてみたい。
 それが駄目なら、せめて朝まで一緒にいてほしいのに。
 馬鹿みたいに女々しい想いに、布団の中で自嘲気味に笑う。笑えば笑うほどに心臓の痛みは増して、大好きなゲームを楽しむ気力もない。
 千景がシャワーを終えて戻ってきても、顔を出す気力もなかった。

「……茅ヶ崎は、終わるといつもそれだな。そんなに嫌なら、誘いに乗ることないのに」

 布団の中で、千景の声を聞く。布団のおかげでくぐもっているが、ため息交じりなのは雰囲気で伝わってきた。
 そんなに簡単にやめられるなら、最初から好きになんてならない、と強く拳を握る。

「今日も……見られない、か。……おやすみ茅ヶ崎、またな」

 ぽんぽん、と布団越しに頭を撫でられるのが分かった。

(見られない? 何を? えっと……また、誘ってもらえる、の、かな……)

 千景の気配がなくなって、至はもそもそと布団から這い出す。性懲りもなく千景を欲しがる体と心にムチを打って、彼の使ったバスルームへと向かっていった。



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「はあっ……は、はぁ……」
「んっ……、ふ、う、はあ……」

 二人の吐息が空気を揺らす。

「だいじょうぶ、か、ちがさき」
「あ、は……い……なんとか」

 至が劇団に入って、千景も同じ劇団に入って、同じ部屋で寝泊まりするようになっても、体を重ねるのはいつも変わらず、ホテルの部屋だった。

 だけど劇的に変わったことがある。

 千景の手が優しくなったこと、貼り付けじゃない笑顔が見られるようになったこと、恋人同士になったこと。
 あの頃にはなかった気遣いと、頬を撫でる指先。優しく見つめてくる鋼ブルーの瞳。

 聞けば、至と同じころに恋を自覚していて、体から始まってしまったのが災いして言い出せなかったのだとか。
 至は隣にうつ伏せた千景のちらりと見やり、わりと長いこと両想いだったんだなあと改めて千景を想う。

(あ、そうだ)

 ふと思いついて、そっと手を伸ばし、彼の背中に触れてみた。
 あの頃は届かなかった背中。今はこんなにも簡単に触れられて、しかも拒まれることがない。至はそれが嬉しくて、調子にのってその背中に乗り上げた。

「こら、茅ヶ崎」
「なんです?」

 汗で湿った背中は、寝心地がいいとは言えないけれど、千景の温もりが感じられる。ぴと、と頬をくっつけて、疲れた体を癒やそうと目を閉じた。

「重いだろ……」
「ちょっとだけ」

 ちょっとだけ、と言いつつも、激しかった行為で疲れた体は、すんなりと眠りに誘われていく。千景の呼吸と合わせれば、それは倍速で落ちていった。

「はぁ……茅ヶ崎がこんなに甘えん坊だったとはね……。可愛いからいいけど、……寝顔、見られないな……」


 千景のそんな声を、薄れていく意識の中で聞いた気がした――。



2018/07/21
お題は「届きそうで届かない」
  
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