華家



どうしようもないふたり。


「げ、ヤバい」

 月曜日の朝、茅ヶ崎至は綺麗な顔を青ざめさせた。

(ヤバいヤバいヤバい、どうしよう)
 何度確認しても、ない。部屋の中を見渡せば、〝それ〟はあるのだが、まさかあれを使うわけにはいかない。
 ちら、と視線を流す。この蒸し暑い朝でも涼しい顔でスーツに着替えている卯木千景へと。
 うーん、とうなった。
 彼に打ち明ければ、怒られるか、怒られるか、怒られるか、馬鹿にされるに決まっている。自業自得だと、呆れしかないため息つきで。

「茅ヶ崎? どうしたんだ。遅刻したいの?」
 声をかけようか迷っていると、そわそわした様子の至に気がついてか、千景の方から声をかけられる。至は観念して、長く息を吐いた。背に腹は代えられない。
「いや、ちょっと、問題が」
「問題?」
「シャツ、クリーニングに出すの忘れてて」
「は?」
 千景が珍しく素っ頓狂な声を上げる。そうしてきょろりと部屋を見渡した。沈黙が、至には恐ろしい。
 至も千景も、シャツはクリーニングに出している。アイロンをかけるのが面倒くさいという理由でだ。それは別に責めることではないし、クリーニング屋も繁盛してとても良いことだ。

 だが問題なのは、至がシャツをため込むということ。

 千景は出張も多いが、基本的に毎日クリーニングに出している。それに比べて、至は本当にため込んでしまうのだ。通勤途中に出して帰るときに引き取って来ればいいじゃないかと言うのだが、「忘れる」そうだ。残業した日にはクリーニング屋が閉まっていたりするし、なかなかタイミングが合わないのだとか。
 しかしそれにしたって、土日でも可能なはずだ。
「……一昨日、持っていかなかったのか?」
「イベと稽古重なってて、うっかり」
「……先週は?」
「普通に忘れてました」
 なぜ二桁あるシャツのストックが全部ないんだ、と千景が眉を寄せる。部屋の隅に、ソファの上に、パソコン前のチェアに、そこかしこに脱ぎ散らかしたシャツが見える。
 千景は片付けろといつも言っているのだが、何だかんだと言い訳をしてちっとも片付かない、103号室の現状。
「はぁ……もう、どうしようもないな、お前は。疲れる」
「すみません……」
「ひとまず、俺のシャツ貸してやる。あのしわくちゃのシャツ着てくわけにもいかないだろ、女の子の人気独り占めしてる〝茅ヶ崎至〟が」
「いや別に独り占めはしてないし……先輩だって人気あるでしょ……」
「そうかな? それより早く着替えろ、本当に遅刻するぞ」
「あ、ありがとうございます」
 言って、千景は自身のストック棚の前から退いてくれる。呆れているし馬鹿にもしているのだろうが、千景は基本的に、優しい。恋人が困っているところを、放っておけないのだろう。

 そこまで思って、カアッ、と頬を赤らめた。
 予定外のことで慌てていたが、これは、もしや。

「サイズ、大丈夫か? そんなに変わらないか」
「えっ、あ、あ、はい、たぶん」
「なんでそんな慌ててるんだ」
「なんでもないです!」
 至は適当にシャツを手に取り、ふぁさりと羽織る。どきんどきんと胸が鳴った。

(これはもしや彼シャツというヤツではないでしょうか。おはようございます)

 混乱して、誰に話しかけているのか分かりやしない。それでもどうにか袖を通して、ボタンを留める。しかしこれは誰がどう考えても〝彼シャツ〟である。女の子が彼氏のぶかぶかのシャツを着て彼氏はきゅんとしてしまうヤツのはずである。
 千景とはそんなに体格が違うわけではないから、さすがにぶかぶかにはならない。だが、千景のシャツを着ているという事実が、至の鼓動を高鳴らせた。
(気のせい。気のせいだってば。気のせいなんだけどね絶対ね! ……先輩の匂いがする)
 クリーニングに出して綺麗にされているが、どうしても意識してしまう。千景の、ほんのり香る香水。
 シャツではなく、至の体が覚えてしまっている、千景の匂いだ。

(先輩の……シャツ、やばい……)

 さらさらして、肌触りがいい。千景の匂いに包まれて、彼に抱き込まれてさえいるようで、顔の火照りは収まってくれない。
 ボタンを留める手が、震えてしまう。千景のシャツを着ているというだけで、彼との濃密な時間を思い出してしまう。これから出社なのに、こんな状態でいいわけがない。
 それに早く着替えないと、気づかれてしまう。こんなことでおかしなほど興奮してしまっていることを。
(駄目だ、ただでさえ呆れられてんのに、こんなの。こんな、朝っぱらからエロいこと、考えてるとか、絶対に、終わるって……!)
 ついさっき、千景に〝疲れる〟と言われてしまっている。片付けさえもままならない至に、愛想を尽かし始めているのかもしれない。そんなときに、こんな醜態はさらせないのに。

 下までボタンを留めたあたりで、千景の長いため息が聞こえてきた。至はびくりと肩を震わせる。
「茅ヶ崎、本当にそれで出勤するつもりか?」
「なっ、なんでですか」
「そのストライプ。茅ヶ崎はそういうの着ないだろ。めざとい人は、俺のだって気づいちゃうかもね」
「そっちか。えーと、じゃあ、違うのにしま――」
「どれでも駄目。そんなやらしい顔して出勤するな」
「やっぱそっちですか!? 仕方ないでしょ、先輩の匂いがっ……ぅ」
 気づかれずに済んだのかと思いきや、やっぱり千景に隠し事などできないらしい。背後から回された腕で振り向かされて、口を塞がれた。

 脳で認識する千景の匂いと、鼻で認識する現実的な千景の匂いに、力がすうっと抜けていく。

「茅ヶ崎、今日片付けなきゃいけない仕事、あった?」
「えと……な、ない、と、思い、ます……」
「そう。休もうか」
「有休申請……当日じゃ無理ですよ」
「そこは俺がなんとかするよ」
 どうやって、と訊くのは恐ろしい。なによりシャツの裾から入り込んでくる千景の手が、思考をとろかしていく。

「俺のシャツで欲情する茅ヶ崎に、うっかり欲情してるんだ、付き合え」

 着たまましようか、なんて耳元で囁かれ、クリーニング忘れた俺GJなんて、心の中でガッツポーズした。



2018/08/06
お題箱より「彼シャツする至さん」ということで。 ……彼シャツ……?;;
  
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