華家



ただ、静かに触れて


「今日、遅くなる」
 千景が、ルームメイトである至にそう言ったのは、朝の通勤途中だった。

「そうなんですか? じゃあ好き勝手実況しとこ」
「お前はいつも好き勝手に実況してるじゃないか」
 同じ劇団に入っていて、同じ寮に住んでいて、さらに同じ部屋ともなれば、こんな会話は日常茶飯事だ。
「えぇ? 一応気は遣ってますよ? 先輩日付越えるギリギリに戻ってくるから、毎回その前には終わらせたりね」
「……涙が出るほど嬉しいね。実況中に入ると付き合わされるから」
「まだ根に持ってる。前に無理やり引き込んだの、怒ってるんですか」
「怒ってないよ、別に」
 本当に? 至がそう訊ねると、信号待ちの隙に、ふっとキスがかすめていった。
「怒ってない」
「……いきなりするのやめてもらえませんかね」
「口許笑ってる、茅ヶ崎。嬉しいときは素直になった方がいいぞ」
「呆れてるんです!」
 こんなところで、と言いつのるも、千景は肩を揺らして笑うだけ。結局千景に敵うことなんてなくて、至はいつも諦めるのだ。

「遅くなるって、出張ですか。予定入ってましたっけ?」
 恋人の予定は聞いているつもりでも、急に変更になるときだって多々ある。それは至も同じことで、たとえばデートの約束がふいになることも。仕事の大変さと重要さは分かっているから、怒れない。
 今日は特に約束をしていたわけではないけれど、千景と過ごす時間が減るのはやっぱり寂しいなと思った。

「…………」
「先輩?」
「…………飲み会」
 千景が沈黙したのが気にかかり、促してみれば、ためらいがちにそんな言葉が返ってくる。至は目を瞠った。
「飲み会、ですか」
「うん」

 千景は、基本的に飲みの席を断っている。飲めないというわけでも、酒乱のケがあるというわけでもない。自分に必要ないことに時間を割きたくないタイプのようだった。
 それは至も同じで、できることなら会社の飲み会など避けたい。そんなものに参加している時間があれば、ゲームをしていたいのだ。千景だって、ネットサーフィンをしたり大好きな激辛料理でも食べにいきたいのだろう。それは、とても共感ができた。

 だから、そんな千景が〝飲み会〟に行くということは、本当に珍しいことだった。しかも、そんなふうに眉間にしわを寄せてまでとは。

 至には分かってしまう。これはイレギュラーなのだと。嫌でも、参加しなければいけないものなのだと。
 じっと前を見据え、至は口を開く。

「……〝仕事〟ですか?」

 親しい人たちとの飲み会ならば、そんなふうに眉は寄せない。会社の飲み会だとしても、乗り気じゃないだけでこんな顔は見せない。
 となれば、答えはひとつだった。
 千景の、もうひとつの顔である、危険な仕事の方に違いない。
 沈黙が、肯定を示していた。
(なるほど)
 至は、恋人のそんな状況を非難するでもなく、かといって擁護するわけでもなく、ただひとつ瞬いて、許容する。
「ホテル、いつものとこでいいですよね」
「……ああ。悪い、茅ヶ崎」
 そうしてふたり、車の中でエリート商社マンの仮面を被って出勤した。



 LIMEで、部屋番号だけ送信しておいた。既読マークはつかないが、〝仕事中〟なら当然だと、ゲームをしながら彼を待つ。
 ライフの回復時間などを計算しいくつかのゲームを掛け持ちで進め、そろそろ日付が変わろうか、という頃。
 部屋のインターフォンが鳴る。ルームサービスは頼んでいないから、彼が来たのだと分かった。至は寝転がっていたベッドを降り、足早にドアへと向かう。ロックを外し、一仕事終えてきたのだろう千景を迎え入れた。
「先輩」
 なだれ込むようにして足を踏み入れた千景を、まずは抱きしめる。
 やはり、酒のにおいはしなかった。
 代わりに、彼にしては珍しい埃っぽさと、ほんの少し――血のにおい。
 いったい何をしてきたのか、誰を傷つけてきたのか、訊くつもりはない。千景自身の心の疲弊が分かるからだ。

 千景は、至に嘘をつくことだってできたのに、〝仕事〟なのだとあえて悟らせた。だけど至は行かせないと止めることも、頑張ってと送り出すこともしない。
 いつも、いつも、ただこうして抱き留めるだけだ。

「お風呂、一緒に入りましょうか。今日は俺が髪洗ってあげますね」
 千景は何も言わずに、ただ頬をすり寄せてくる。ぽんぽんと背中を叩いてさすり、千景の前髪をかき分け、現れた額にキスをした。
「怪我しないで俺のとこに戻ってきてくれた、ご褒美です」
「……うん」
「さ、お風呂入ってもう寝ましょ。一晩中ぎゅーってしててもいいですよね」
「暑くないか……」
「そういうとこですよ、ノーロマン」
 ふ、と千景が吐く息の重さが変わる。至は満足そうに笑い、千景をバスルームへと引っ張り込むのだった。



2018/08/11
お題「飲み会」。飲み会全然関係ない。
  
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