華家



ただ、それだけで

 背中の方から湯をかけて、腕についた泡を流す。抱くように腕を回して、お腹にもシャワーを当てた。

「先輩、泡落ちました? 大丈夫ですか?」
 千景から声は返ってこない。代わりに、こくんと頷かれる。

 至は千景の右足に、左足に、順番に湯をかけて、泡を洗い流していった。最後に背中をさっと流して、湯をはじく肩にちゅっと口づけた。
「はい、いいですよ。先輩中入ってて」
 そう言ってぽんぽん肩を叩けば、千景はゆっくりとした動作でバスタブの中に身を沈めていく。

 今回わりと重症かなと思うのは、従順すぎるからだ。

「先輩、頭こっち。ここに乗せて。ん、大人しくしててくださいねー」
 至の指示に、千景は何も言わずにバスタブの縁に頭を乗せてくる。至は目を閉じたままの千景を眺めて、シャワーの湯で彼の髪を濡らした。
「熱くないですか?」
「……平気だ」
 ようやく、ぼそりとひとこと。至はそれにハイと答え、撫でるように髪を梳き湯を浸透させていく。
 シャンプーで千景の髪を洗う。髪の上で泡立つシャンプーの香りは、いつものにおいと違っていたが、そんなことを気に留めている場合ではない。
「茅ヶ崎……」
「はい?」
「……悪い」
「それお風呂入る前にも聞きましたね」
 ふ、と笑う吐息でやり過ごす。

 数か月に何度かのペースで、千景がこんなふうになることがある。
〝仕事〟を終えてきた後なのだと分かっているが、具体的に何をしているのか、何をしてきたのか、訊いたことはない。
 気にならないわけではないが、至にはそれよりもっと大事なことがある。

 怪我をしないで、自分のところに戻ってきてくれた。ただそれだけでいい。

 ホテルの部屋に入ってきた千景から、埃っぽさと血のにおいを感じたことも、最低限の動作しかしないことも、それですべて吹き飛ばせてしまえる。
 至は千景の髪を洗い流しながら、トリートメントを施して額にちゅっとキスをした。少し時間をおいている間に自身の体を洗うのだが、
「茅ヶ崎」
「いますよ」
「……うん」
 たまに、千景から確認される。物音は立てているのだし、千景が気配を悟れないわけはないのに、声で、確認されるのだ。そこにいることを。
「茅ヶ崎?」
「いますってば」
「……ん」
「さみしがり屋さんですね」
 言って、少し冷えてしまった肩にキスを落とし、千景のトリートメントを落とす。自身の体の泡も洗い流し、千景の体の冷えた部分に熱い湯をかけてやってから、楽な体勢に変えさせた。
「もう少し待っててください」
 頬に口づけて、自身の髪を洗う。最小限の時間に抑え、洗っている姿をじっと眺めてくる千景の元へ滑り込んだ。

「面倒にならないか? こんなこと」
「先輩相手じゃなきゃね。とっくに投げ出してますよ」
 少し落ち着いたのか、背中から抱きしめた千景から声が漏れる。コツ、とこめかみをぶつけてやって、至は笑う。

 確かに最初は戸惑った。どこまで触れて良いのか、どこまで許されるのか、少しも分からなかったからだ。
 初めて千景がこんなふうになったところを見た時は、慌てて救急車を呼ぼうとしてしまったくらいだ。いいから傍にいてくれと頼まれて、千景の望みが見えた瞬間、ただ抱きしめていた。
 こうして風呂に入ることも最初は千景に拒否されて、少しずつ、ゆっくり、間合いを詰めてきた。体に触れられることさえ厭わしかったようで、やんわりとはねのけられたことだってある。
 触れられたくないと呟く千景を抱きしめて、何度も耳元で囁いたことを覚えている。
〝大丈夫〟と。
 何が大丈夫なのか、具体的に説明はできない。いろいろな意味がありすぎて、三日三晩かかりそうなのだ。
 体を洗わせてくれるようになるまでも、時間がかかった。特に腕は相当の葛藤があったようだが、一度そこに口づけたら、力が抜けていったようだった。

「本当にお前は……馬鹿な男だな」
「先輩に言われたくないですし」
 触れることを、傍にいることを受け入れてくれた千景を、こうして抱きしめていたい。千景が何者であっても、何を隠していても、この手が血に濡れていても、ただ傍で抱きしめていたい。
 風呂で体の汚れを落とし、温まり、一緒に上がって体の水分を拭き取り、至が千景の髪を乾かす。
「先にベッド行っててください」
「……一緒に……」
「あぁはいはい、分かりましたから。可愛いなくそっ」
 自身の髪を乾かすからと、千景にベッドを促しても、離れようとしない。一度気を許してしまえば、千景はとことんハマり込むタイプのようで、最近はこんなふうに甘えてきてくれる。
 至はドライヤーの温風で髪を乾かし、終えた後に千景の手を取った。そうしてベッドに向かい、先に寝転がった。
 千景に向かって両腕を伸ばし、促す。
「ほら、千景さん。一晩中、ぎゅーってしててあげますから」
 ためらう素振りを見せる千景の指先を自身のもので絡め取り、軽く引いてやる。この期に及んで何を遠慮しているのかと。
「千景さんに甘えられるの、わりと好きなんですよ、俺」
 ややあって、ベッドが千景の重みを受けて、ぎ、と音を立てる。至は宣言通り千景の体をぎゅうと抱きしめ、そっと髪を撫でた。

「茅ヶ崎……」
「なんです?」
「お前がいてくれてよかった」

 千景がこんなふうに素直に、胸の内を言葉にするなんて、年に何回あることだろうか。心臓がきゅうと締めつけられて、愛しさが募った。
 恋人同士であって、なんの邪魔も入らないホテルの部屋で、ただ抱きしめ合って眠るだけでも、充分に満たされる思いだ。
 至は千景の髪を撫で、同じシャンプーの香りがするそこに口づける。
「おやすみなさい、千景さん」
 千景のすべてを知ることはできなくても、誰も知らない千景を知っている。
 それだけで、この先も千景を抱いて寝るだけでいいと思えてしまえる。
 一度気を許したらとことんハマり込むのは自分も一緒かと、幸福な気分で苦笑した。



2018/09/15
お題は「添い寝」
「ただ、静かに触れて」の続き
  
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