華家



きみがほしい


 先月の売上データを分析して、会議に使う資料を、ひとまずの体裁を整え誤字脱字だけチェックして、上書き保存した。
 右下に表示される時計をちらりと見やり、至は周囲に視線を走らせる。みんな自分自身の仕事に忙しくて、誰もこちらを気に留めてなどいやしない。ふ、と小さく息を吐き、できるだけ不自然でないように腰を上げた。
 ちょっと飲み物買ってくる。そう隣の同僚に声をかければ、おー、と気の抜けるような声が返ってきた。しかし助かった。ここで、「俺のも買ってきて」などと言われていたらと思うと、席を離れる理由の選択肢を間違えた自分自身が情けない。

 このミッションはどうしても完遂しなければならないのだ。誰にも見咎められず、切り抜けてこそ、意義がある。

 そう思いつつ、逸る心臓を周りに気取られないように足を踏み出した。

(落ち着け。落ち着け、焦ったら駄目だ。変に思われる)

 誰にも引き留められませんように。そう思いながら踏み出す足が、震えているように感じる。膝のあたりがむずがゆくて、手の指先が冷えているような感覚さえあった。
 ドキン、ドキンと胸が鳴る。呼吸も心なしか浅くて、唇が震える。

(大丈夫だ、気づかれない)

 至はフロアを抜けて廊下を歩き、人がいないことを確認してから階段へと続くドアを開けた。いつもより重く感じる鉄扉は、緊張しているからに違いない。
 踊り場から身を乗り出して、上階に人がいないことを確かめる。そして、下の階にも。ほっと息を吐いた。
 自社ビルであるからか、社員たちのフロア移動は大抵がエレベーターだ。ワンフロアでさえそうする者たちが多く、朝や定時直後は大変な混雑になる。健康のためにと自分のフロアまで階段で頑張る者もいるようだが、仕事中はどうしても疲れていて、エレベーターになるらしい。
 至にはそれが有り難かった。

 心置きなくゲームができる。

 あまり褒められたことではない。というか、バレたら確実に叱責を受けるだろう。至とて、そこまで見境なく就業中にゲームをするわけではない。喫煙者が煙草休憩にいくくらいの頻度でしかないし、今の時期は忙しいのだ、いつもならまず仕事を片付けるのを優先する。
 だけど先ほども述べたように、このミッションはどうしても完遂しなければならないのだ。
 至は焦る足でフロアを二階分ほど降りる。手すりから再度上下階を見上げ、誰も来ないことを確認した。
 ポケットから携帯端末を取り出し、アプリを立ち上げる。ここは電波があまり良くないが、そうも言っていられない。
 邪魔をされたくないし、イケメンエリートで通っている自分が、こんなものにハマっているなんて知られたくない。恥ずかしいわけではなく、後々面倒なことになりそうなのだ。猫を被るのも楽じゃない。
 そうして立ち上がったアプリのホーム画面を眺め、至はコクリと唾を飲んだ。もう少しでメンテナンスに入ってしまう。するなら今しかない、タイムリミットが迫ってきていた。

(今度こそ……きてくれますように)

 至がタップしたのはデイリーの課題でも特別イベントでもない。
 それは、限定スカウトのページ。推しキャラのスカウトガチャが、今日までなのだ。もっと詳細に言えば、あと五分ほどで終わってしまう。
 至はできるだけ何も考えないように、石を消費して十人のスカウトができるボタンをタップした。

(来い、来い来い来い、来い)

「来いッ……!」

 スカウトのキャラが揃い、くるくると画面の中で踊る。スキップはできるのだが、このスリルと期待を楽しむには、うずうずしながら眺めるのがいちばんだ。
 だが、結果は敗退。

「…………ッソが! 排出率もっと上げろよ!」

 いや、SSR一枚とSR三枚があればまずまずの結果ではあるのだが、至が欲しいのはそれではない。
 チッ、と盛大に舌を打ったところで、人の気配。至はハッとして端末を持った腕を下ろし、息を潜めた。
 どうも、下の階の社員数名が、会議後に頑張って階段を使おうとしているらしい。なにも今日いまこのときに頑張らなくても! と悪態を吐きたい気分だが、至はただじっと祈った。ここまで上がってきませんようにと。
 祈りが通じたのか、社員たちは会議の結果をグチグチと呟きながら、階下に降りていった。
 ほう……っと安堵の息を吐く。

「落ち着け、落ち着け、あと二回……三回、できる」

 タイムリミットまでもう少し。迷っている暇はない。至はもう一度スカウトボタンをタップした。目当てのカードが出ない。出ない。課金する時間はあるかどうか。

「もう一度……っ!」

 石も、時間も、もうこれが最後かと思われた。
 九人ハズレ、最後の一人が明かされる。至は目を見開いた。
 それこそまさに、待ち望んだ推しのカード!

「――ッしゃあ! キタコレ!!」

 思わずそう叫んだ。ここは寮の中ではないのだと我に返り、口を押さえる。だけど仕方がない気がした。ずっとずっと欲しかったものがやっと手元にきてくれたのだから。興奮するなという方が無理だ。ひとまずスクリーンショットを撮っておくことにする。

「良かった……!」

 口許が緩む。安堵して、力が抜けていくようだ。
 だから、油断した。

「いけないなあ、仕事中にゲームか? 茅ヶ崎」

 上の方から声が降ってくる。ぎょっとして振り仰げば、すぐ上の手すりから見下ろしてくる男がいた。

「せっ……んぱい」

 思わず声がうわずる。千景は楽しそうに笑みをたたえて階段を下りてきた。
 どうして、なんでここに。そんな思いでいっぱいである。
 何しろ、

「先輩……明日まで出張だったんじゃ……」

 千景は今ここにいないはずなのだから。ドキンドキンと鳴る胸を静める暇もなく、千景は踊り場から回り込んで至の一段上で立ち止まった。

「早く交渉済んだからな。食事の誘い断って、帰ってきた」
「さすが、優秀ですね」

 どうにも照れくさくて、ふいとそっぽを向く。携帯端末を早いところしまわねばと慌てたのが、いけなかったのかもしれない。千景に端末を持った手首を取られた。

「デスクにいなかったから、ここかなって当たり付けてきたけど、本当にゲームやってるとはね」
「う……」
「口止め料は何をもらおうか」
「意地が悪いですよ、先輩」
「仕事中にゲームする方が悪い」

 ぐうの音も出ない。確かに、至が全面的に悪いのだが、素直には認めきれない。

「だって仕方ないでしょ。全然こなかったんですから。今日のメンテ前までがリミットだったんです」

 見逃してくださいよ、と少し不機嫌顔で呟く。このミッションだけは逃したくなかったのだと、説明してやりたいが、したくない気持ちもあった。

「そんなに欲しいカードだったのか? SSR?」

 手を離して千景はため息を吐く。至はコクンと頷いて、覚悟を決めた。仕事まで放り出す人間だとは、たとえ事実でも思われたくない。

「先輩が悪いんですよ……」
「俺? なんで」

 至は端末を操作し、撮ったスクリーンショットを千景に向けてみせた。千景はひとつ瞬いて、目を丸くする。

「先輩のSSR……どうしても四枚欲しくて」

 欲しかったのは、卯木千景のSSR。普段見られない笑顔が、どうしても欲しかった。
 しかしどうせなら完凸させたいし、だけど開花前も取っておきたい。そうなると、自然と四枚必要になってくるのだ。イベントは無事に完走したけれど、欲求は深かった。

「あのね茅ヶ崎……」

 千景が、呆れとも照れとも取れそうな声音で名を呼んでくる。恥ずかしくてしょうがない。照れくさくてしょうがない。

「お前には本物の俺がいるのに」
「出張ばっかりの人が、よく言う」
「俺がいない間それをオカズにするのか?」
「なっ……あ、のねえ、そういうことじゃないんですよ、先輩のSSRが俺の端末の中にあるってのが重要でそういう、やらしい、ことは……、先輩、このカードの唇やらしすぎません?」
「したんだな」
「………………一回だけ」

 至は恥ずかしさで、たまらず項垂れた。手の甲に当てた額が、熱いように思う。

「ちがさき」

 千景の甘ったるい声が、耳のすぐ傍で聞こえる。思わず肩を揺らせば、ちゅっと音を立てて耳朶にキスをされた。

「四枚そろえるの、もしかして課金したか?」
「……まあ、ちょっと」
「茅ヶ崎の〝ちょっと〟は信用ならないよね」
「…………これくらい」

 言って、掛けた金額分の指を立ててみせる。千景にとっては想定外だっただろうか。それとも想定内だっただろうか。腰に腕を回されて、体が密着した。

「せ、先輩ここ職場」
「お前に言われたくない」
「んぅ」

 唇が重なる。唇を吸われる。唇に歯が当たる。
 そっと開けばゆっくりと舌先が入り込んできて、誰も来ない階段で長いキスをした。

「茅ヶ崎、お前が〝俺〟に課金した分、今夜お前の体に返すから」

 くらり。
 目眩のするような甘い声で囁かれ、至は甘い息を吐き出した。



2018/06/16
お題は「息を潜める」 千景さんSSR祈願→完凸できました
  
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