華家



みんな知らない


 休憩スペースで、至は微糖の缶コーヒーを飲んでいた。
 本当はコーラが良かったけれど、それは駄目だ。なぜか寮にいるようなスイッチが入ってしまう。職場でそれはまずいのだ。何しろ至は筋金入りの猫かぶり。別に悪気があるわけではないし、仕事や人間関係が円滑になるための手段としか思っていない。
 苦みのあるコーヒーはそんな意識を保つためのアイテムだ。
 だけど、ひとつだけ、至を素に戻してしまうものがある。

「ね~、見たぁ?」
「見た見た! 今日絶対いいことある!」
「だよね、超レアじゃん、卯木さんの笑顔とか~」

 休憩室の外をご機嫌で歩いていく女性社員たちの会話に、危うく口に含んでいたコーヒーを吹き出しそうになった。
(は?)
 至は眉間にしわを寄せる。
 これだ。至を素に戻してしまうもの。

「そもそも海外行ってること多いから、社内で見られることも少ないよね」
「それ~! 最近は出張少なくなったけど」
「同じフロアでよかった~目の保養だわ~」

(先輩、なんかレアキャラ扱いになってる)
 ガチッ、と飲み口を軽く噛んで、話題の人物を思い浮かべた。
 卯木千景。職場では先輩であり、劇団では仲間であり、個人的には恋人だ。
 彼の名前が出てくると、途端に猫がかぶれなくなる。だからできれば、会社では彼に逢いたくない。名前も聞きたくない。

(うそ。逢いたい……顔、見たい)
 最初に好きになったのは、絶対に自分の方だ。千景を包む毒のような闇に、どうしてか惹かれた。

「この暑い中爽やか笑顔だった~幸せ~」
「ホントだよね。ベスト暑くないのかな? 腰ほっそ」
「卯木さんが汗かいてるとこ見たことなくない?」

 ないね~などと言いながら、女性たちは休憩室の前を通り過ぎていく。至はハア、と息を吐いた。彼女たちは、千景のいったい何を見ているのだろうと。
 確かにあのうさんくさい笑顔は爽やかに見えるだろう。それが千景の仮面であるというのに。寮で見せるのとは全然違う。
 しかし一人の女性についてはどこを見ているのか。暑くなる前まで着用していたジャケットを脱げば、確かに体のラインが浮き彫りになる。見んな、ときつく目を閉じて、不愉快さを散らそうと試みた。

(確かに見た目細く見えるけど、わりと筋肉ついてるから! あんなのでガンカン突かれるこっちの身にもなっ……――)

 そこまで思って、ハッと我に返る。まだ仕事中だというのに、千景との濃密な時間を思い出すのはよろしくない。とても平静ではいられなくなる。
(やば……この間のが、ちょっと、激しかった、から)
 ついうっかり、と視線を泳がせるけれど、頭から離れていかない。ホテルのベッドの上で、千景のあの体に乗っかられる自分というのが、いまだに現実だとは思えない。
 片想いだと思っていたのに、そうではなかったと知ったときの衝撃。なかなか手を出してくれなかったこともあり、千景と恋人同士であるということが、夢みたいに思えるのだ。
 だからだろうか、いけないと思うのに、千景とのことを必要以上に思い出してしまうのは。
(先輩だって汗かくし……首筋とか、おでこ、すごい色っぽいんだよね……)
 会社の誰も知らないことかもしれない。千景は汗まで調節できるのか、仕事中に汗で不快そうにしているところは見たことがない。だけど、そんな彼もちゃんと汗をかく。

 ベッドの上で、至を組み敷き、髪を湿らせ、汗を落とす。

 茅ヶ崎、と吐息のように呼ぶ声に、荒れた息に、顎から落ちてくる汗に、感じてしまうことを、彼はきっと気づいてる。
 体の間で互いの汗が混じるのを、幸福に思っていることも。
 抱き寄せた肌に浮かんだ汗をぺろりと舐めるのが、わりと好きなことも。
 不謹慎にも稽古中に、運動で浮かぶ汗にドキリと胸が鳴ってしまうことも。
 きっと、全部知っているに違いないのだ。

(駄目だ、やっぱあの人のこと考えて平静でいられるわけなかった)
 顔どころか、体が火照る。
 至は携帯端末を取り出して、LIMEを立ち上げた。
 今日時間があれば、と誘おうとして、失敗する。

『あと2時間、我慢してろ、茅ヶ崎。何があっても定時で上がれよ』

 文字を打ち込む前に、千景からのメッセージが画面に現れた。当然すぐに既読マークがついて、え? と至は首を傾げ、ハッとして顔を上げた。
 休憩室の前の廊下、会議資料らしきものと携帯端末を持った千景の姿。
 よこされる目配せは、いさめるようでも、なだめるようでもあった。
 もしかして見られていたのだろうかと思うと、恥ずかしくてしょうがない。こんな言葉を送ってくるということは、顔に出ていたに違いないのだ。千景との濃密な行為を思い出していた破廉恥な思いが。
 千景は休憩室に入ってくる様子はなく、そのまま歩みを進める。会議室の方向だなと気がついて、至は急いで文字を打ち込んだ。
『会議、ちゃんと終わるんですか、定時に』
『ああ。そんな余計な心配するくらいなら、明日足腰立たないかもって方を心配しておくんだな』
 誘った以上千景も定時で上がれるのだろうなと言質をとったつもりだったが、そう返されてしまって撃沈した。
 それならそれで、せいぜい密度の濃い時間を過ごさせてもらおうと、残った仕事を片づけに休憩室をあとにするのだった。



2018/08/04
おだい:「汗」
  
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