ハーモニー その指が離れる前に

2016/03/21



 それを見たのは、本当に偶然だった。
 今日からのテスト期間中は、部活がない。誰もいないはずのそこに、一人の生徒がいた。弓道場で弓を引くその男は、桧垣彰の記憶にはない人物だ。
 だが一度見たら忘れられないと言えるほど、美しいフォーム。弓掛(ゆがけ)をはめ、矢を番(つが)えて弓を押し弦を引く。視線はまっすぐに星的を射ており、挑むようにも、包むようにも見えた。
 そうして彼の指を離れた矢は的のど真ん中に当たり、桧垣の目を瞠らせる。
 ――――ど真ん中っておい、なかなかできねーぞあんなの……あんなヤツ、いたっけ?
 記憶をたぐり寄せるけれど、出てこない。もしかしたら弓道部の生徒じゃないのだろうか。どうしてこんな生徒が今まで隠れていたのだろう?
 彼はもう一本、矢を射る。桧垣はコクリと唾を飲んだ。そうだ、もしかしたら、まぐれ当たりということもある。一本程度じゃ、実力は分からない。
 ヒュ、と矢が空を切った。
 あ、と思わず声を上げそうになる。その矢が真ん中に当たることはなかった。
 ――――惜しいな、近いところには当たったけど……。
 やっぱり最初のはまぐれかと、少しがっかりした桧垣の視界で、もう一本矢が飛んでいく。その矢は、二本目の対角線上に突き刺さったように見えた。
 一本目は真ん中。二本目は数センチ離れたところ。そして三本目は、その反対側。よく見てみれば、その三本は綺麗な一直線になっていた。
 ――――な……んだって……?
 目を見開く桧垣を取り残して、矢がもう二本放たれる。それは最初の矢を軸に上下を囲んだ。真ん中の矢を、四本の矢が取り囲んでいる状態である。
 ?だろ、と桧垣は声を失った。こんなこと、狙ってできるものなのか。
 三本くらいは狙ってできるかもしれない。だがそれだって確率の低い賭けだ。相当の腕がないと、上下左右を囲むなんてできやしない。
 ――――なんで、……なんでアイツ大会の代表になってねえんだ? あんな腕がありゃ、即メンバーだろ!
 桧垣の心臓が、速い鼓動を奏でる。こんな人物が今まで隠れていたなんて。いったい誰なんだ、学年は、名前は、経験は、と疑問が頭の中を回った。
 桧垣彰は、ここ青葉学園男子部の二年だ。所属している部活は、弓道。つまり、視線の先の彼がするのと同じ動作を、日常的に行っている。
 その桧垣の記憶にないということは、少なくとも弓道部の主立ったメンバーではないということだ。
 新入生が入って三か月経ったが、彼が弓を引いているところを見たことはない。入部の挨拶の時にはいたかもしれないが、興味がなかったせいで覚えていない。
 だが、こんな腕を持つ男が弓道部で練習していれば、誰かが気づくはずだ。すぐ大会メンバーにという声が上がっていただろう。
 ――――そんなの、噂も聞いたことねえ。
 桧垣自身は、次の地区戦のメンバーに選ばれている。三年生を差し置いて、と良く思わない連中もいるようだったが、そんなものは関係ない。実力がすべてだと思っている桧垣には、痛くもかゆくもなかった。
 そう、実力があれば、たとえ入ったばかりの一年生でも大会メンバーになれるのだ。
 個人戦、団体戦、成績の良い者が上の大会に行ける。そんなのは誰もが知っていること。
 ――――アイツなら、行ける。
 確信だった。
 彼がいれば、上の大会に行ける。勧誘しない手はない。
 桧垣は、ひとつ深呼吸をして足を踏み出した。
「今はテスト期間中で部活は停止のはずだぜ」
 しかし突然かけた桧垣の声にも、彼は驚いたりしなかった。恐らく桧垣の存在に気がついていたのだろう。
 構えていた弓矢を下ろし、彼が振り向いた。
「そういうあんたは何しにきたんですか、桧垣先輩」
 ひどく整った顔立ちにも驚いたが、それにあまり似合わない乱暴な言葉遣い。桧垣はほんの少し怯んだ。
「……俺を知ってんのか?」
 桧垣先輩、と名を呼んだということは、彼は後輩――一年生。やはり弓道部にいたのだろうか?
「そりゃね、レギュラーの先輩くらいは覚えてるよ」
「なあ、お前も弓道部なのか? 名前は?」
 もう打つ気がなくなったのか、彼は道具を所定の場所に片付ける。
 それを追いかけるように桧垣はついていき、名前を訊ねた。
 彼が同じ弓道部なら、知っていた方がよかったのだろうが、分からないものはしょうがない。
「仮入部の頃からいたでしょ。もっとも、あの頃からかなり人数いたし、記憶の片隅にもないだろうけど」
「……悪い、下のヤツらの名前なんて覚えてなくて」
「別に責めてるわけじゃないんで、いいですよ。俺も目立つ方じゃないし」
 彼の物言いに、桧垣は首を傾げた。確かに桧垣の視界に入っていなかったことから見ても、目立つ部類ではないのかもしれない。いや、桧垣が他人に興味がないだけということもある。
 しかし彼は、一度視界に入ってしまえばもう忘れられない。
「勝手に使ってすみませんでした」
「いや、それはいいけど、なんでお前、練習」
 練習の時は本気でやってないんだ、と責めようとしたその時、弓道場のドアがガラリと開いた。
「あーっ、拓巳やっぱりここにいたー! 数学のノート見せてくれるって言ったじゃん!」
 探したんだからな、と付け加えて入ってきたのは、桧垣も見知っている人物。弓道部の一年生だ。
「あー悪い祐二、忘れてた」
 突然の乱入に目を瞬かせていると、拓巳と呼ばれた彼がすまなそうに肩をすくめている。親しそうな様子だと、桧垣は感じた。
「ったく、拓巳はすぐそれだ」
「だからごめんって。荷物取ってくる」
 言って、彼は弓道場の奥、ロッカーへ向かっていってしまう。そういえば名前をちゃんと聞いていない、と引き留めようとしたが、その前に彼の背中は消えてしまった。
「こんちは桧垣先輩。練習っすか?」
「いや、なんか人の気配したから、来てみただけだ。……なあ藤枝、アイツ知ってんのか。仲良さそうだけど」
 一年生でありながらも、個人戦のメンバーに入った藤枝祐二は、団体戦メンバーである桧垣にも覚えはめでたい。
 その彼と親しいのなら、視界に入っても良かったのになと、桧垣は不思議に思った。
「拓巳のこと? そりゃ、ルームメイトだし、小学校まで一緒だったんで。幼馴染みってヤツっすかね」
「寮生かよ。聞かない名だな」
 たくみ、と名をなぞってみても、桧垣の記憶にはない。
「広瀬拓巳、一年三組。まさか高校同じになるとは思わなかったけど……また何かやらかしたんですか、アイツ」
「また? 問題起こすようなヤツなのか」
「いや、部に迷惑かけるようなことじゃないんですけど、中学時代にいろいろあったっていうか……」
 口ごもる藤枝が気にかかるが、暴力沙汰や警察沙汰になるようなものではないようだ。個人的な問題ということだろう。
「アイツあんなに巧いのに、なんでメンバーに入ってないんだ? もったいないな」
「あー、見たんですか? やっぱりそう思いますよねえ。俺も何度も言ってるんですけど、そのたび軽くあしらわれちゃって」
 ハハと藤枝は笑うが、目は笑っていない。桧垣と同様、彼の才能をもったいないと思っているのだろう。
「本当は俺より巧いくせに……二年生はおろか、三年でさえ食っちゃいますって。桧垣先輩なんか目じゃない」
「言うじゃねえか、てめぇ」
 先輩に対して遠慮がないなと思いはするが、実際、広瀬には敵わないだろうとも思う。彼が本気を出したら、自分が代表でいられるかどうか怪しいものだ。
 だけど、それでも。
「アイツがいれば、団体戦で上に行ける」
 それでも広瀬の力が欲しい。
「寮生って言ってたな、じゃあ説得する時間はたっぷりあるってわけだ」
「難しいと思いますけどねー。そりゃ、俺だって本気になった拓巳を見たいけど」
 幼馴染みの俺が言っても無駄なんだから、と藤枝は言うが、それだけでは諦めてしまえない。どうしても今年の大会で、団体戦での成績を残したいのだ。
 さてどうやって説得しようかと思案しているところへ、広瀬が荷物片手に戻ってくる。
「祐二、お待たせ、帰ろう」
「おー」
 弓を引いている時とは打って変わって、優しい表情になっている。幼馴染みの前ではこんな風になるのかと、桧垣は目を瞬いた。
「おい、広瀬」
 目的を忘れるところだったと桧垣は広瀬の肩を掴み、名を呼ぶ。不躾な声音に、広瀬は桧垣を睨んだ。
「なんですか」
「ウチに入っておいて手ぇ抜いてるとか、ふざけんじゃねえぞ。ちゃんとやれ」
 責めるためでしかない物言いに、広瀬は目を瞠って、そして嘲笑を含めて声を立てた。
「ハハッ。別にここ、強豪ってわけでもないのに、何をマジになってんの。練習したって、何か手に入るわけでもないのに」
「お前が代表取れないと思ってんのか!? なんで隠してんだ、お前が出れば、個人戦でも団体戦でも上位狙えるだろうが!」
 桧垣はカッとなって叫ぶ。
 確かに、強豪というわけではないし、野球やバスケ、サッカーの方が学校も力を入れている。だが弓道部だって、そこそこの成績を残せているのだ。真面目にやれば、上の大会だって夢ではない。
「広瀬、すぐにでもコーチに掛け合うから、次の大会に出ろ」
「絶対嫌だ。俺は大会に出たくて弓道やってんじゃない」
「なっ……」
 肩を掴んだ桧垣の手を払いのけ、広瀬はもうひと睨み。その隣では、ほらやっぱり、と頭を抱えたそうな藤枝がいた。
「行こう祐二」
「あっ、おい待てよ拓巳!」
 広瀬はそのまま弓道場を出ていってしまう。あとには呆然と立ち尽くす桧垣が、一人取り残された。



「拓巳、弓道に関しては俺、桧垣先輩と同じ意見なんだけどな」
 弓道場を出て寮に向かう途中、藤枝は未練がましく後ろを振り返りながら口にする。なんだよお前まで、と広瀬はため息をついた。
「何度も言ってるじゃん。もったいないって」
「俺も、別に弓道が嫌いなわけじゃない。でも大会には出たくない。高校の部活にそんな力入れられるほど、情熱的じゃないんだよね」
 悪いけど、と付け足して広瀬は笑う。
 ?だろうなあと、藤枝は思うのだ。広瀬は、中学の大会ではそこそこの成績を収めていたのを知っている。お互い競う敵として大会で逢ったこともある。
「ウチって部活やってないと寮入れないじゃん。でも俺ができそうなのって弓道だけだったからさ。ただそれだけだよ」
「中学ん時に、何かあった? ほら、ちょっとなんていうか……荒れてた時期あっただろ」
 藤枝の問いかけに、広瀬の表情が固まった。
 別にそんなんじゃないよと広瀬は答え、玄関のドアを開けて寮の管理室の前を通り、階段を上がって自分たちの部屋へと向かう。
「あの頃はお前にも心配かけてたよな、ごめん」
「いや、それはいいけど」
 そうして二人、あてがわれた部屋に入った。
「ほら、数学だったよな。分かんないとこがあったら訊いて」
「ほぼ分かんない」
 いろんな公式や図が書かれたノートを放られるが、藤枝は数学だけは弱い。授業をサボッているわけではないのに頭に入ってこないのだ。
 仕方ないな、と広瀬が手を貸すのも、もう日常茶飯事になっていた。
「拓巳、あのさ。怒られるの覚悟で言うけど」
「何? この公式くらい覚えておけよ」
 ノートを広げながら、何とか理解をしようとする藤枝を見て、恐らく覚えられないと言うんだろうと踏んでいた広瀬だったが、予想は見事に外れることになる。
「弓道、真面目にやる気ないのか?」
 目を瞬く。
 今日はなんて日だ。
 たまの息抜きで軽く打っていた矢が、こんなに誰かの心に刺さってしまうなんて。
 藤枝だけならまだしも、厄介そうな男にまで見られてしまったのは、運が悪かったとしか言いようがない。
「ない。ごめん」
「……そっか。無理強いする気はないし、でもお前の本気見たいってのは変わらない。だから時々こうやって確認するかもしれないけど、怒るなよな」
「お前ってバカ正直だよな。羨ましいよ」
 怒られるかもしれない、と思うような発言をあらかじめ宣言しておくなんて、頭のいいやり方とは思わない。
 広瀬のノートを、自分のノートに丸写ししながらも、理解をしようと奮闘する藤枝を眺め、広瀬は本当に羨ましいと心の中で呟く。
 広瀬はこんな風にあけすけに心を出したりできない。
 言えないことは、たくさん体の中に降りつもっているけれど、言えないまま我慢している内に、慣れてしまっていた。
 中学時代は、藤枝の言うように、少し荒れていた時期があった。
 理由の一つは、中学に上がる直前に成立した、両親の離婚だ。
 男女の間にはいろいろあるもんだ、と納得しようとはしたが、感情がついていかない多感な時期。
 さらに、どちらが子供、つまりは拓巳を引き取るか揉めていたのも、荒れた理由だっただろう。
 自分が引き取る、いや自分が、という揉め方なら救われていただろう。しかし、父も母も、互いに押し付け合っていたのだ。
 恐らく再婚に不利だと思ったのだろう。結局父親に引き取られることになったが、折り合いがよいはずもなく、広瀬は勉強と部活に集中しながらも、誰も寄せ付けない時期があったのだ。
 幼馴染みである藤枝は学校が違っていて、そういった事情を話すこともなかった。しかし親のネットワークというものは侮れない。どこからか、情報は入ってきていたのだろう。
 藤枝のことは、羨ましいと思う。
 両親がそろっている、それだけでなく、あけっぴろげに感情を表に出せる素直さや、他人を気遣える心の強さ。本気で心配してくれていると分かる、瞳のまっすぐさ。
 高校生ともなれば世間というものが分かってきて、簡単には子供の頃みたいに純粋な気持ちだけでは、生きていけない。
 だけど藤枝は、そういう世間を分かっていながらも、まっすぐだ。
 まったく羨ましい。彼の奥さんになる相手はさぞ幸せだろうなと、心の底から思うのだった。
「祐二、ごめん」
「ん? なにが」
 唐突に口にされた謝罪の意味を把握できず、藤枝は首を傾げる。公式も解けないし幼馴染みの言葉も理解できないし、不安そうな顔をしていた。
「祐二が俺の腕を買ってくれてるのは嬉しいんだけど、大会には出たくないんだ、どうしても……」
「……大会に出さえしなけりゃ、ちゃんとやるのか? 拓巳が打ちたがってるの、分かるから言ってんだよ、俺だって。そうでなきゃ、打ちに行ったりしないだろ」
 広瀬が引っかかっているのは、大会に出たくないというその一点だけなのだろうかと、藤枝は思う。
 弓道が嫌いなら、何もわざわざ人のいない時を狙って弓道場に行く必要はない。
「出たくないってだけなら、先生たちに言ったら? 本人が望んでないのに、無理に出させることもないだろ」
「今日、先輩に見られただろ。上の大会に行きたいって、部活なんかに熱入れてる、……ごめん祐二もメンバーなのに。俺が嫌だって言っても、ああいう人は必ず出てくる。加えて、実力があるのに大会に出ないのは他のヤツらを馬鹿にしてんのか、って言われるんだ」
 テーブルの上で広瀬はこぶしを握る。やけに具体的に例が挙げられるのは、きっと中学で実際に言われたことなのだろう。
 藤枝はうなり、それは仕方ないかもなあと腕を組んで考える。
「お前が大会に出たくない理由を誰も知らない以上、周りはそう思っちゃうんじゃない? 俺も無理には訊かないけどさあ……」
 非常に気になる様子で、訊きたそうにそわそわしているが、藤枝は踏み込んでこない。
 いつかは話せるかもしれない、話した方がいいのかもしれないと広瀬は思う。
 だが、話すことで彼まで巻き込みたくないという思いが勝る。
 大切な相手だからこそ、話せないのだ。
「まあ、そんなわけだから俺がお前と肩並べて大会にーなんて話にはならないよ」
「そっかー残念。でもさあ、桧垣先輩の方は結構興味持ってたよね。寮生だって言っちゃったし、これからすごいかもよ」
 そうだ、藤枝は理解してくれるが、厄介そうな人物に知られてしまったのだった。
 テスト期間で誰も来ないだろうと高をくくっていたのが災いしたのだろう。よりによって団体戦メンバーに見られてしまうなんて。
「テスト明け、憂鬱」
「サボんなよ。それはダメ」
「分かってるよ、大丈夫」
 広瀬はため息をついた。
 桧垣という男が、これからどう出てくるのか想像できないわけではないから、余計に気が重かった。


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