ハーモニー その指が離れる前に

2016/03/21



「久しぶりだな、広瀬」
 人違いだと言葉を発せたのは、建物と建物の間の狭い路地に引きずり込まれてからだった。
 だが、どうやら人違いではなかったようで、広瀬、と呼んだ声を改めて振り仰ぐ。
「なっ……」
 目を見開いた。
 どうしてこんなところに。
 声にならない声が、震える吐息になって空気に溶けていく。
「さ、坂崎さん……」
 声が震え、つう、と鼻筋を汗が伝うようだった。
 夢であってほしいと祈るのに、目の前を塞ぐ男は消えてくれない。それはもう楽しそうに笑っている。
 いい獲物を見つけた、と笑みを浮かべる口許は、広瀬に昔のことを思い起こさせた。
 ――――くそっ、なんだってこんなところに!
 広瀬は心の中で悪態を吐いて、口唇を噛む。こんなところで降りなければ良かった、別の方向に歩いていけば良かった、今までの努力がすべて水の泡だ、と。
「おいおいそんなに怖がんなよ、傷つくなあ」
「別に怖がってなんかない! なんだってこんなところにいるんだ、家も学校も全然逆じゃないか!」
 掴まれた腕を振り払って、広瀬は坂崎と呼んだ男にしっかりと向き直る。逃げても無駄だということを、広瀬はよく知っていた。
 震えているのは気づかれていませんようにと祈りながら、必死で虚勢を張る。
 弱みを見せたら最後だ、とは思わなかった。この男に見つけられた時点で、終わりが目の前だったのだ。
「……ああ、またナンパ? アンタの行動範囲に入ってるって知ってたら、こんなとこで降りたりしなかったのに」
「言うようになったじゃないか。前はもっと可愛かったのになぁ」
 ずいと顔を近づけられる。あの頃と変わらない香水の匂いが不愉快で、広瀬は顔を背けた。
 どうにかこの場をしのぐ方法はないだろうかと、思考を巡らせるけれど、良い案が浮かんでこない。
 例えばこの男を突き飛ばして走って逃げても、追いつかれる。言葉で突き放したって無駄なことも知っている。むしろ喜ばせるだけだ。
「あの頃とは違うんだよ。嫌なら誰か他に可愛い子見つけたらいいだろ」
「なんだ、妬いてんのか?」
「ふざけんなよ。妬くだのなんだの、俺たちそういう関係じゃなかっただろ。もう、逢わずにすむと思ってたのに」
「てめぇが勝手にいなくなったんだろ。探したんだぜ? 案外近くにいたもんだ」
「なっ……!」
 坂崎の手が伸び、広瀬の喉を押さえつける。絞め上げる力の強さではなかったが、圧迫される感覚に戸惑う暇もなく、あの頃みたいに口唇が塞がれた。
「んんっ……!」
 覚えのある感触。
 すぐに舌を差し入れてくるのはこの男の癖だろうが、性急な仕草は下心が満載だった。
 腰を抱かれ引き寄せられれば、下半身さえ密着せざるを得ない。目的はひどく分かりやすい。
「い……っや、いやだ、やめろッ……!」
「なんだよ、お前だって寂しかったんじゃないのか? あれからずっとしてないんだろ……なぁ」
 肩に置いた手で男の体を押しやり、口唇の呪縛から逃れるけれど、どれだけも自由にしていられない。体で押さえつけられて、無理やり口唇を合わせられる。
「んんっ、ぐ……」
 明確な意思をもって、腰を撫でてくる手のひらに気づくけれど、もう押しのけることができない。
 力が強いというのも理由の一つではあったが、この男に慣らされた体はある種の欲望を思い起こし始めていた。
「ん、んっ……ぁふ」
 舌をきつく絡められて、感じたしびれは背筋を這っていく。こんな場所でこんな男に好き勝手されたくないのに、体が疼いてしまう。
「いやだ……いや、も……やめ、ろ……っ」
「やめていいのか? 中途半端によ」
「やあっ……!」
 坂崎の手が股間を撫で上げる。広瀬は思わずのけぞって高い声を上げた。
 ハッとして口を押さえるが、それが男を楽しませる要素になることも知っている。
 もうこのままあの頃みたいにずるずると流されてしまうのかと、口唇を噛んで嘆く。
 結局この男からは逃げられないんだと諦めたその時、押さえつけられる力がふっと緩んだ。
 不思議に思って目を開けると、見慣れた制服に包まれた腕。
「うちの大事な部員に何してんだてめェ」
 さらに聞き覚えのある声。広瀬は目を瞠った。
「桧……垣先輩……?」
 男を引きはがし、間に入ってきたその男は、広瀬が別の意味で逃げ出したかった相手、桧垣彰。なんだってこんなところに、とこの場で思う二人目である。
「なんだてめェは!」
「こっちのセリフだ、なんなんだてめェ、白昼堂々痴漢かよ!」
 男の質問には答えず、桧垣も声を荒らげる。一秒睨み合っていたが、桧垣がちらりと広瀬を振り向いてきた。
「広瀬、大丈夫かよ」
「えっ、あ、……あぁ……」
 情けない話だが、広瀬はそこでようやく認識する。桧垣に見られていたのだと。
 目の前が真っ暗になるようだった。
 どうしてこの男には見られたくないものを見られてしまうのかと、頭がガンガンと音を立てる。
 ――――見られた……見られた……!? どうしよう、こんな……とこ、見られるとか!
 いったいどこから見られていたのだろうと思い起こす。が、どの時点からでも不都合なことは変わらなかった。
 ここに引きずり込まれ、押さえつけられて無理やりキスをされたその場面は、広瀬が女であったらこのまま警察に駆け込める状況だ。
 だが男が男に襲われたというこの事実を、桧垣がどう受け止めているか分からない。
 ――――どうしよう……これネタに何か……脅されたりしたら……俺、また……っ。
 考えられないことではない。【誰にも言われたくなければ】なんて金銭を要求してくる可能性は高いのだ。
 そんな男ではないと思いたいが、藤枝ほどこの桧垣という男を知らない。いったいこの状況をどう読み取るのか、広瀬には少しも分からなかった。
 このまま逃げ出してしまいたいと、嗚咽の漏れそうな口を押さえる。
「……ハ、なんだ広瀬。お前もう男たらし込んでたのか」
「なっ……」
「はァ?」
 坂崎が、下卑た笑いを浮かべた。
 何を馬鹿なこと、と抗議したい広瀬と、何を言っているのか分からない、という桧垣の声が重なる。どこまで侮辱すれば気が済むんだこの男は、と広瀬の中に怒りが生まれた。
「この人はそんなんじゃない! 何考えてんだよ!」
「普通はな、何の関係もないヤツぁ痴話喧嘩になんて首突っ込んでこねえんだよ。なぁ?」
「どう見ても痴漢だろ、嫌がってたじゃねえか!」
「こいつはな、無理やりされた方が燃えるタチなんだよ、てめェもヤッてみりゃ分かるさ。なあ、どんな声出すか教えてやろうか? 簡単に足開くわ腰振るわ、すげぇエロい声でもっと奥〜なんて言うんだぜ、こんな可愛い顔しててよ」
「な……」
「坂崎さん!」
 決定的な一言を吐かれた。広瀬は青ざめて叫ぶ。
 声を被せたつもりだったけれど、桧垣が目を見開いて振り向いてきたところを見るに、無駄なことだったらしい。
 それがなければまだ、この男との関係をごまかせていたかもしれないのに、もうそれも叶わないだろう。
「広瀬、お前……」
「だからな、この場合邪魔なのはてめェの方なんだよ。こいつを狙ってたんなら、ご愁傷さまーだ」
「んだとてめえッ!」
「まさかもうたらし込んでるとは思わなかったけどなあ? なかなかいいオトコじゃねーか広瀬。どんな顔して抱かれてんだ? 俺より感じたか?」
 男は桧垣の横から広瀬を覗き込む。ギラついた瞳で睨まれて、桧垣は一瞬だけひるんだ。
「やめろって言ってんだろ、胸糞悪いな!」
 だがすぐに広瀬を背中に庇い直す。それが男の癇に障ったらしく、顔をゆがめた。
「……気に入らねーなてめェ。ヒーロー気取りかぁ? 広瀬がどんな技でたらし込んだか知らねえが、随分入れ込んでるじゃねーか」
「そういうんじゃないって言ってるだろ、耳が悪いのか。うちの大事な部員に手ぇ出すなっつってんだよ」
「部員? ……ああ、広瀬お前まだ弓道やめてなかったのか、あんな矢しか打てなくて、よくやるよ」
「なんだと!?」
 桧垣はその言葉にカッとなった。
 この男が広瀬の弓を知っているのには驚いたが、あんなもの呼ばわりとはどういうことだと。一瞬で目を奪われた桧垣には、そんなことを言われる筋合いはないと男を睨みつける。
「てめぇはこいつの本気知ってるっていうのかよ! そうじゃないなら今の取り消せ!」
「桧垣先輩、いいから! そんなのどうでもいい!」
「よくないだろ、お前もなんでこんなヤツに好き勝手させてんだ! 脅すくらいしかできなそうなヤツに!」
 ひゅ、と何かが空を切る音が聞こえた。それが男のこぶしだと分かったのは、驚いて膝から力が抜けたおかげで、避けられたあとだった。
 ゴ、と鈍い音が耳に入る。ビルの壁に当たったこぶしの音だ。それでも加減をしたらしく、男のこぶしにもそうダメージはなかったようだが。
「脅すしか、だと? ご不満なら相手になってやるが……いいのか? 暴力沙汰とかよ」
 口だけの男であればよかった。しかしそれなりの場数を踏んでいるらしく、好戦的だ。
 さらに、男は卑怯な言葉を持ち出した。前途ある若者が暴力沙汰を起こし学校に通報され、停学や部活動停止に追い込まれる事例は、いくつもある。
「バレなきゃいいんじゃねーか」
 しかし桧垣の方もまったく喧嘩ができないわけではない。むやみやたらに売ったりはしないが、売られれば買うくらいはできた。
 そして目の前の男は、明らかに喧嘩を売ってきている。桧垣はこぶしを作って身構えた。
 やる気か、と男が楽しそうに口の端を上げたのを見て、広瀬はハッとした。
「先輩、なに考えてんだ、喧嘩なんかしたら部活……っ」
「向こうが先に仕掛けてきてんだよ、どっちに非があるかは説明すりゃいい!」
 広瀬は桧垣の喧嘩の腕がどれほどのものか分からない。
 分からないが、重要なところはその部分ではない。他者との暴力沙汰は問題だということだ。
 たとえ正当な理由があっても、手を出してしまった時点でアウト。
「説明できるのか? そいつが男にキスされてよがってたところを邪魔して喧嘩になったってよ」
 ぐっと言葉に詰まった。
 そんなことを説明すれば、周りがどう思うか分かったもんじゃない。
 いくら桧垣が、広瀬は嫌がっていたと説明したところで、男にキスされていたのは事実だ。面白おかしく騒ぎ立てる連中がいないとは思えない。
「こっちは構わねぇぜ、ゲイ呼ばわりされようが、問題になっててめぇらんとこが出場停止になろうが」
 かかってこいよと挑発する男に、桧垣は乗せられそうになる。ここまできて引けるかとこぶしを握りしめたが、それを止めたのは広瀬だった。
「桧垣先輩、やめて、こんなことで喧嘩なんて、馬鹿馬鹿しい」
「バ……っ、おい俺はお前の」
「坂崎さんも引いて。……行くから」
 握ったこぶしに手のひらをかぶせてくる広瀬に、桧垣は抗議しかけた。お前のためじゃないかと。
 だが広瀬は見向きもせずに、坂崎を諫め始める。行くからという言葉がどういう意味か、分からないわけではなかった。
「久しぶりに、……あんたのでイカせて、坂崎さん」
「最初から素直にそうしとけよ、広瀬」
「おい広瀬っ、お前なに考えてんだ!」
 仕方ねえなあというように肩を竦め、こぶしを引っ込めた男のもとへ、広瀬は足を踏み出す。
 肩を掴んで引き留めた桧垣だったが、眉間にしわを寄せた広瀬に睨みつけられ、ひるんだ。
「俺の問題だ、あんたには関係ない。……庇ってくれたことには、お礼言っとくけど。でも、誰かにこのこと話したら、ただじゃおかないからな」
 そう言って、広瀬はため息をつき体を翻す。綺麗な顔をしておいて凶悪な瞳で睨みつけられた桧垣は、これ以上追求することもできずに立ち尽くした。



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