きみと恋がしたいんだ

2016/03/21



 あの時はただただ驚くばかりで、観察なんてできなかったけれど、制服と背負ったカバン、そしてアンダーリムの眼鏡、それだけは記憶に残っていた。
 ――――逢えた! 逢えたっていうか、いた! やっぱり毎週きてるのかな、同じ回にいたんだよね?
 逢いたい、逢えればいいとは思っていたが、やはり実際に姿を観てしまうと、途端に思考がうまく回らなくなる。
 シミュレーションでは、ここで【駆け寄って声をかけて袋に入れたハンカチを差し出して先週のお礼を言って時間があればどこかで話でもと言う】はずだった。
 そんなにうまくいくわけがない。
 それでなくても引っ込み思案な春乃が、声をかける勇気などあるはずもなかったのだ。
 そうして彼は、どうしてだか少し俯いて額を押さえながら、ゆっくりと階段を降りきって窓口を通り過ぎようとしている。春乃がいる場所とは反対側へだ。
 ―――何やってるんだよ、行っちゃうじゃないか! 声かけるんじゃなかったの? 今日いたのだって偶然かもしれないし、来週いる確率だって低いのに、今声かけないでどうするんだ、いくじなし!
 ここぞという時に怖じ気づく自分が、情けなくて仕方がない。
 それがコンプレックスでもあるのだ、この機会に少しずつでも克服していきたい。
 それでも足が動かない。口唇が動いてくれない。
 いつだって、そうだった。小学校の時に好きな女の子ができても何も話せなかったし、前を行くクラスメイトがペンを落とした時だって声をかけられなかった。
 話すのが苦手ということもあるが、それ以前に、最初の一歩が踏み出せないのだ。いつだって相手からのアクションを待ってしまう。
 今日だって、あわよくば彼の方が気づいて声をかけてくれないかな、なんて思っていた。
 まあ実際はそんなことなくて、甘えていた自分が恥ずかしくて仕方がないのだが。
 ―――行くんだ、今しかないかもしれないだろ、このハンカチ返すんじゃなかったの!?
 胸の前で、ぎゅっとこぶしを握る。
 今この一歩を踏み出す、それだけでいい。あとはなんとかなる。
 足を踏み出すだけで、少し変わるのだ。
 春乃はそうやって自分を叱咤してけしかけて、ドクドクと鳴る心臓に手を当てながらも、一歩、踏み出した。
「あ、あのっ!」
 それは時間にすればものの二十秒ほどだっただろうが、そこにたどり着くまで、春乃には非常に長い時間に感じられた。
 だけど、ちゃんと足を踏み出せた。声を出せた。
 その勢いが消えてしまわないうちに、春乃はあと一歩、もう一歩、踏み出す。名前を知らない以上、声をかけるにしても彼の傍まで行かなければ届かない。
 実際、一度声を出しただけでは彼も振り向いてくれなかった。聞こえていない、自分にかけられたおのだとは思っていない、のだろう。
 春乃はめいっぱいの勇気を振り絞って、手を伸ばした。
「あの、すいません、これっ」
「えっ?」
 カバンの紐を掴むのが精一杯ではあったけれど、彼に届いた。彼が振り向いてくれた。
 それでまた緊張がぶり返してくる。あの時はゆっくり観ていられなかった彼の顔がすぐ近くにあって、春乃は顔がほてっていくのを自覚した。
「あ、あの、僕、先週……」
 ―――な、にこの人……っ、かっ、……こ、いい……イケメン? ていうの? や、僕そういうの分かんないけど、かっこいい部類に入るよね?
 引き留めた手前、何か言わなければいけないのに、緊張と焦りと驚きとで、うまく言葉が紡げない。
 清潔感のある短髪と少し高めの身長、眼鏡の向こうのまっすぐな瞳。間違いなく「かっこいい部類」に入るだろう彼を目の当たりにして、先ほどとは別の意味で、心臓が逸っているような気さえしてくる。
「これ、あの……」
「あ、先週泣いてた子――あ、ごめん」
 持っていたハンカチを返そうと差し出しかけた時、彼が言葉を発した。しかも、泣いていたところ見られたなんて気まずいだろうなと、気遣ってだ。バツが悪そうな顔をした彼が目に映って、春乃は慌ててぶんぶんと首を振った。
「い、いえあの、ハンカチ、ハンカチありがとうございましたっ」
 これ以上何も言えなくなる前にと、ハンカチを入れた袋をずいと差し出す。彼はそれを、きょとんとした顔で受け取った。
「えっ、この間の? 返さなくてもいいって言ったのに」
 ハッと気がついて中身を確認する彼に、返さなくてもいいと言ったのに、わざわざ返してきたことに気を悪くしてしまっただろうかと、眉が下がる。
「ご、ごめんなさい……待ち伏せ、みたいなことして……でもなんか、た、高そうな物だった、ので、持ってるのも悪くて」
「ああ、ごめんごめん、そうじゃない。もう一回逢えると思わなかったっていう意味だよ。もしかして毎日来たりしてた? こっちこそ申し訳ないんだけど」
 気を悪くしたのならと謝る春乃に、彼の方こそが弁解してくる。お互いに誤解があるようだと、人が行き交う道ばたで謝り合戦が始まってしまった。
「あ、あの、木曜日、だけ、部活……ないので、だから、えっと……今日が初めて、です」
 春乃は焦りと恥ずかしさとで、俯いたまま必死で言葉を探す。顔を上げたら、赤くなっているのがきっと知られてしまう。
 ―――おかしい、僕、いくら知らない人だからって、こんなの今までなかったのに……!
 心臓がドキドキして、音が鳴りやんでくれない。いっそ自分の声よりも大きく聞こえているように思えた。
「ああ、そうなんだ。よかった、毎日待ちぼうけとかだったらどうしようかと思った。律儀だよね」
 彼がホッ息を吐く音が聞こえる。それを聞いて、春乃もホッとした。どうやら迷惑には思っていないようだと。
 活発そうな外見に反して柔らかな話し方は、やはり育ちが良いのだろうか。彼は返してもらったハンカチをカバンの中にしまい込む。
 これで縁が切れてしまうなと、春乃は少しどころでなく寂しい気持ちに駆られる。だけどさすがに、これ以上の何かなんてできそうになくて、じゃあ、と会釈をして駅に向かおうと、した。



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