特別(嫌い)

2010/06/02



 化け物みたいな拳だった。
 臨也の頬を、一筋の汗が流れていく。すぐ横では、ぱらぱらと砕けたコンクリートが重力に従って落ちていった。

「シズちゃん、腕上げたね」

 ふつうだったら拳の方がイカレてしまうだろう。こんなにヘコんでいてもそれは間違いなくコンクリートなのだから、骨が砕けていてもおかしくない。
 いや、実際にイカレているかもしれないのだが、目の前の男――平和島静雄は、そんなことは気にもとめていない様子で強く強くにらみつけてくる。
 心臓の弱い者だったら、その視線だけでも射殺せてしまいそうな瞳だった。

「いつもよりスピードが上がってるけど、何かあったのかい?」

 折原臨也は、そんな視線を真正面から受けながら口の端を上げる。虚勢ではなく、純粋に楽しかったからだ。
 静雄の敵意は、ひどく分かりやすい。そんな状況を作り出したのは間違いなく自分自身で、予想していた現象と言える。
 予想外だったのは、敵意が増していること、そしてスピードが上がっていること。
 対応できないほどではない。かすった拳が頬を切ったけれど、死ぬような大けがではない。もっとも、この拳が当たっていたら確実にあの世行き、運が良くても病院の世話になってしまうだろう。
 それは学生時代いやというほど学習したし、拳を食らうほどの動態視力でもない。

「手前の胸に聞いてみろや」
「俺の? シズちゃんに殴られるようなことはしてないつもりだけどなあ。まだあのとき君をハメたこと怒ってんのかい?」

 女々しいな、と息を吐くと同時に、ポケットに忍ばせていた愛用のナイフを振り上げる。静雄はその軌道をよける為についていたコンクリートの壁から手を離す。
 切っ先には触れていなかったと思うのに、袖口が少し、切れていた。相変わらず、確実に急所になるところをねらってきやがるなと、静雄は舌を打つ。
「俺だって君のことは嫌いだけどね、早々君の暴力になんてつきあっていられないんだよ」

 ピュフ、と刃が風邪を切る音がする。路地裏での喧嘩など、通行人は見て見ぬ振りをするだろう。下手に警察に通報して、自分が目を付けられたらどうしようという防衛本能が、そうさせるのだ。

「池袋には来んなつってんだろうが臨也ぁ!」

 ただそれだけが腹立たしいのだと、静雄は足を振り上げた。至ってふつうの若者であるのに、繰り出される足も拳も、破壊神のようだ。
 かわされたと見るやいなや、そこから回し蹴りにシフトするあたりは、やはり喧嘩慣れしているのだろう。

「ひどいな、俺にだって友人はいるんだから、彼らの顔を見に来るくらいさせてくれたっていいだろう」
「ハ、友人じゃなくて駒だろうが手前にの場合はよぉ!!」
「そうとも言う」

 蹴りを避けたそこへ、見計らったかのように静雄の拳が飛んでくる。避けきれずに、臨也の身体が飛んだ。

「ガッ……は」

 少し当たっただけでこの衝撃なんて、やっぱり本気でやり合ったら死んでしまうなと、臨也はどこか他人事のように思った。
 起きあがろうとした身体を、静雄に止められる。破壊の限りを尽くす左足が、臨也の胸を地面に押しつけた。体重を乗せられた臨也は、身動きが取れなくなってしまった。
 どうにか背中にある足を切りつけようにも、ナイフは先ほどの衝撃で手から離れてしまっている。

「俺は手前が嫌いだ」

 グ、と足に力が込められる。冷ややかな静雄の声は、どうしてか耳に心地よかった。

「知ってるよ。俺も嫌いだからね、シズちゃんのこと」

 臨也は咳き込みながらも口の端を上げる。
 ミシ…と聞こえる音は、きっともうすぐ骨がイカレてしまう音なんだろう。

「だったら! 俺の相手だけしてりゃいいだろうがよ! 他のヤツ動かして巻き込んでんじゃねえよ!!」

 こめかみに浮かぶ血管が見える。いつのことを言っているんだろうなと、臨也は心中で考える。何せ、心当たりが多すぎて逆に見当もつかないのだ。

「心外だな、俺がまるで悪人みたいじゃないか」
「寝ぼけたこと言ってんじゃねえぞ臨也ァ! 手前はな、俺だけハメてりゃいいんだよ!」

 少し、思案する。
 他のヤツらを巻き込むなと言っていた。それは即ち、彼の周りの者をということだろうか。彼の友人を? 会社を?

 暴れ者のわりに情が深いんだからと、眉を寄せる。

「卑猥だなあシズちゃん。男ハメる趣味はないんだけど」
「……き……っしょく悪いこと言うな!!」

 臨也の言葉の意味を理解して、静雄は臨也の背中から足をどけ、そのまま蹴り上げた。呻きながらも、臨也は静雄の足の重圧から逃れたことに少しだけ安堵する。

「臨也、二度と俺の前にツラぁ見せんな」

 静雄はそれだけ言って踵を返してしまう。臨也は壁を頼りに立ち上がりそれを見送った。
 平和島静雄は、暴れ者のわりに周りの人間を大切にする。いや、暴れ者だからこそ、そんな自分の傍にいてくれる人間を大切にするのか。
 新羅しかり、セルティしかり、上司しかり。
 思えばここまで敵意を向けられるのは、折原臨也ただひとりだろう。
 臨也にとって平和島静雄が特別(嫌い)な人物であると同時に、静雄に取っては折原臨也が特別な人間なのだろう、か。

「…………気持ち悪い」

 臨也は目を細め、今日のところは何もせずに帰ろうと、痛む身体をおして足を踏み出した。